ジャン=マリー・ロラン
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ジャン=マリー・ロラン

ラ・プラティエール子爵ジャン=マリー・ロラン(: Jean-Marie Roland, vicomte de La Platiere、1734年2月18日 - 1793年11月10日)は、フランス革命期の政治家経済学者ジロンド派の指導者であるマノン・ロラン(ロラン夫人)の夫で、妻に強く影響されていた。1792年にルイ16世の政府で内務大臣となる。1793年に失脚すると逃亡するが、妻の処刑を聞いて自殺した。
経歴

1776年に、20歳年下のジャンヌ=マリー・フィリポン(マノン、後のロラン夫人)に出会う[1]。ロランは当時、尊敬される経済学者であり、シャルル=ジョセフ・パンクークの大百科事典の貢献者であった[2]。2人は、1780年2月4日に結婚し[3]、翌年に娘のマリエが生まれた[4]

妻マノンのお蔭で1792年3月にジロンド派に入り、内務大臣に就任する。彼のブルジョワジー的な見た目(シンプルなスーツ、ループなしのリボン)は、宮殿の廷吏を驚かせた[5]。4月、ジロンド派内閣はオーストリアに宣戦布告する(「フランス革命戦争」勃発)。

国王ルイ16世立法議会での拒否権を放棄するよう提言する妻マノンの筆による手紙を送付し、6月に内務大臣を解任される。8月10日事件が勃発し王権が停止される。同時に内務大臣に復帰した。9月、九月虐殺では内務大臣として手をこまねいて為す術も無かった。立法議会が国民公会に改称、ヴァルミーの戦いに仏革命軍が初勝利し王政廃止宣言が出された。11月、テュイルリー宮殿の"鉄の戸棚"(fr)から自ら選別し外国との内通文書を公表。それゆえに、山岳派はジロンド派の国王との妥協文書も消失したと主張しようとした。また、国王裁判の過程でのルイ・カペー(前ルイ16世)を民衆の前に召喚しようとする彼の試みは、山岳派の怒りを増幅させていった。同時に妻マノンのビュゾーへの愛の告白の事実を知り、1793年1月21日の国王処刑の2日後、1月23日に内務大臣を辞任した。

山岳派からジロンド派は執拗に攻撃され、ロランはパリを逃げ隠れた。逃亡中に死刑を宣告された。ロラン夫人はパリに残ったため1793年6月に逮捕され、11月8日に処刑された。妻の処刑を聞いたロランは、ルーアンの潜伏先から徘徊し、恐怖政治に対する恐怖を「妻が殺害されたことを知った瞬間から、私は敵に染まった世界には残らない」と表現した。ロランは1793年11月10日の夜にその紙を胸に付け、木にもたれて、杖刀で心臓を刺して自殺した[6][7]
外部リンク

Discours de Roland a la Convention Nationale (franzosisch)

Roland reste au ministere de l'Interieur (franzosisch)

出典^ Dict. Academiciens de Lyon, p. 1149.
^ Il signe ainsi l'imposante somme intitulee Manufactures, Arts et Metiers, troisieme tome de le seconde partie de l'Encyclopedie, ouvrage de plus de 1000 pages publie en 1790. Lire en ligne
^ "ROLAND de la Platiere (Marie Jeanne Phlipon, dame)", Auguste Jal, Dictionnaire critique de biographie et d'histoire, p. 1077-1081.
^ AD Somme, registre paroissial de St-Michel d’Amiens 1780-1782, 5 octobre 1781.
^ Jean-Marie Roland De La Platiere, ?uvres, Volume 2, Bidault,‎ 1800, p. 82
^ Claude Perroud, "Note critique sur les dates de l'execution de Mme Roland et du suicide de Roland", La Revolution francaise: revue d'histoire moderne et contemporaine, Paris: Societe de l'histoire de la Revolution francaise, t. 22, 1895, pp. 15-26.
^ Sian Reynolds, Marriage and Revolution: Monsieur and Madame Roland, Oxford University Press, 2012, pp. 287-288.










フランス革命


年表

アンシャン・レジーム

原因(英語版)

革命

立憲王政

共和政

総裁政府

統領政府

 主要事件

1788年

屋根瓦の日(1788年6月7日)

ヴィジーユ会議(英語版)(1788年7月21日)

1789年

第三身分とは何か?』刊行(1789年1月)

レヴェイヨン事件(1789年4月28日)

全国三部会の召集(英語版)(1789年5月5日)

国民議会(1789年6月17日?7月9日)

球戯場の誓い(1789年6月20日)

憲法制定国民議会(1789年7月9日?1791年9月30日)

バスティーユ襲撃(1789年7月14日)

大恐怖(1789年7月20日?8月5日)

人権宣言(1789年8月27日)

ヴェルサイユ行進(1789年10月5日)

1790年

高等法院の廃止(1790年2月?7月)

貴族階級の廃止(英語版)(1790年6月19日)

聖職者民事基本法(1790年7月12日)

1791年

ヴァレンヌ逃亡事件(1791年6月20日?21日)

シャン・ド・マルスの虐殺(1791年7月17日)

ピルニッツ宣言(1791年8月27日)

1791年憲法(1791年9月3日)

立法議会(1791年10月1日?1792年9月)

1792年

ブラウンシュヴァイクの宣言(1792年7月25日)

パリ・コミューンの暴徒化(1792年6月)

8月10日事件(1792年8月10日)

九月虐殺(1792年9月)

国民公会(1792年9月20日?1795年10月26日)

第一共和政の成立(1792年9月22日)

1793年

ルイ16世の処刑(英語版)(1793年1月21日)

革命裁判所(1793年3月9日?1795年5月31日)

恐怖政治(1793年6月27日?1794年7月27日)

公安委員会

保安委員会


ジロンド派の追放 (en) (1793年6月2日)

マラーの死(1793年7月13日)

国民総動員令(1793年8月23日)

反革命容疑者法(1793年9月17日)


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