ジャン=ポール・ベルモンド
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ジャン=ポール・ベルモンド
Jean-Paul Belmondo
1960年
生年月日 (1933-04-09) 1933年4月9日
没年月日 (2021-09-06) 2021年9月6日(88歳没)
出生地ヌイイ=シュル=セーヌ
死没地パリ
国籍 フランス
職業俳優
ジャンル映画テレビ
配偶者Elodie Constantin (1953-1965)
Natty Belmondo (2002-2008)
主な作品
勝手にしやがれ』(1960年)
いぬ』(1963年)
リオの男』(1964年)
気狂いピエロ』(1965年)
ボルサリーノ』(1970年)
『ライオンと呼ばれた男』(1988年)
レ・ミゼラブル』(1995年)

 受賞
カンヌ国際映画祭
パルム・ドール名誉賞
2011年 長年の功績に対して
ヴェネツィア国際映画祭
栄誉金獅子賞
2016年
ロサンゼルス映画批評家協会賞
生涯功労賞
2009年
セザール賞
主演男優賞
1989年『ライオンと呼ばれた男』
その他の賞

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ジャン=ポール・ベルモンド(Jean-Paul Belmondo、1933年4月9日 - 2021年9月6日)は、フランス俳優。シリアスなドラマからアクション・コメディまで、出演映画は幅広い。20世紀後半のフランスを代表する俳優の一人。実子のポール・ベルモンドは、元F1ドライバー。
経歴
生い立ち

1933年4月9日パリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌ(Neuilly-sur-Seine)で生まれる。父のポール・ベルモンド(Paul Belmondo)は、フランス美術アカデミーの会長もつとめた彫刻家画家シチリアピエモンテにルーツをもつイタリア系フランス人)[1][2]、母も画家だった。

子どもの頃はよく遊んだものの、体が弱く、静養のために田舎の農家に預けられる。健康を取り戻して家に帰ってからは、サッカーに熱中し、ゴールキーパーを担当。15歳の時にボクサーになる夢を見たことをきっかけに、今度はボクシングに熱中する。両親に無断でボクシング・クラブに入り、練習を積むが、父に反対されてボクサーになる夢は果たせなかった。

1949年、16歳のベルモンドは演劇に興味を持ち始め、フランス国立高等演劇学校 (コンセルヴァトワール)の入学試験を受けるも落選。しかし、別の演劇学校で学び、国立高等演劇学校に入る準備を始めた。

1950年7月3日、パリの病院を巡回する一座のメンバーとして、初舞台に立つ。演目は『眠れる森の美女』で、ベルモンドの役は王子様だった。その後ピレネー地方での夏期巡業にも参加。ここでコメディアンのギイ・ブドス(fr:Guy Bedos)と知り合った。

翌1951年に念願の国立高等演劇学校への入学を果たし、アルバイトをしながら演技を学ぶ。その合間に芝居や映画を見て回った。やがて舞台に出演する機会を得たベルモンドは、1953年にはパリの二つの演劇で主役をつとめた[3]。またこの年に、ルネ・コンスタンス(愛称エロディー)と結婚、翌年には子供が生まれた。

その後も舞台を続けて経験を積むにつれ、次第に演技派との評価が高まってきた。1956年7月1日に同校を修了。このころには演劇批評家からも注目されるようになり、卒業直後の公演では優秀な賞を獲得した。
映画スターに勝手にしやがれ』(1960年)墓場なき野郎ども』(1960年)気狂いピエロ』(1965年)

演技力を高く評価されたベルモンドを、映画界も無視していなかった。1957年に端役で映画出演するようになる。

1958年5月公開のギイ・ブドス監督の『黙って抱いて』に、無名時代のアラン・ドロンとともに出演。同年、ジャン=リュック・ゴダール監督の短篇映画『シャルロットとジュール』に主演として参加(フランスでの一般公開は1961年)。撮影後、ベルモンドが兵役に出てしまったので、ベルモンドの声はゴダール自身が吹き込んでいる。

パリに戻った1959年、ベルモンドはクロード・シャブロル監督『二重の鍵』に出演する。これまでの端役に比べると重要な役で、その存在感を示したベルモンドは映画でも注目された。

同年8月から9月にかけてゴダール監督の『勝手にしやがれ』の撮影が行われる。主演として参加した同作品は1960年3月に公開され、ヌーヴェルヴァーグの代表作として大ヒット。ベルモンドを一躍映画スターの座に押し上げた。同年5月公開の『雨のしのび逢い』に出演。共演したジャンヌ・モローはこの作品で第13回カンヌ国際映画祭女優賞を受賞した。
アクション・スターとして

1963年、ジャンヌ・モローと再び共演した『バナナの皮』あたりから、出演作品の傾向が変わってくる。これはいかさま師と別れた女房がくり広げるドタバタ喜劇だったが、こうした娯楽色の強い映画への出演が増えてきた。これを決定づけたのが、同年の『リオの男』だろう。財宝のありかを示す像をめぐる冒険物語で危険なアクションシーンも多いが、スポーツマンのベルモンドはスタントを自ら演じた。この映画は大ヒットし、ベルモンドも新しくアクション俳優というイメージを持たれるようになる。

1965年には同傾向の『カトマンズの男』に出演するが、これで共演したウルスラ・アンドレスと恋に落ち、行動を共にするようになる。そして翌年にアンドレスが離婚したのを受けて、ベルモンドも9月19日に離婚する。同年再びゴダールの『気狂いピエロ』に主演する。しかし、ベルモンドはシナリオを使わないゴダールのやり方を批判し「二度とゴダールとは仕事をしない」と宣言した。一方のゴダールも、1970年に商業主義の映画を嫌うと宣言し、もっとも使いたくない俳優の筆頭にベルモンドを挙げている。ベルモンドは他に『暗くなるまでこの恋を』にも出演し、カトリーヌ・ドヌーブとも共演した。

1969年にはアラン・ドロンからの申し込みを受けて、初めての本格的な共演映画『ボルサリーノ』に出演。85万人を動員する大ヒット作となった。
プロデューサーとして

アラン・ドロンが自身で製作した主演映画をヒットさせたことに触発され、ベルモンドは自らのプロダクションであるセリトフィルムズ(ベルモンドの祖母、ロジーナ・セリートにちなみ名付けられた)を設立[4]。1972年に製作された『ジャン=ポール・ベルモンドの交換結婚』では、制作費の半分をベルモンドが負担し、プロデューサーとして手がけた最初の作品となり(クレジット上のプロデューサーは、弟のアランになっている)、1974年の『薔薇のスタビスキー』から本格的な映画製作に乗り出した。なおこの年、ベルモンドの映画出演料はアラン・ドロン、ルイ・ド・フュネスを抜いて、フランスでトップに躍り出た。
闘病生活・晩年

1980年代以降も様々な作品に出演し活動していたが、2001年8月に脳梗塞を発症。


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