ジャン=フランソワ・ミレー
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イギリスの画家「ジョン・エヴァレット・ミレー」とは別人です。

ジャン=フランソワ・ミレー
Jean-Francois Millet
ナダールによる肖像写真(1856年-1858年頃)
誕生日 (1814-10-04) 1814年10月4日
出生地 フランス王国マンシュ県グリュシー
死没年1875年1月20日(1875-01-20)(60歳)
死没地 フランス共和国セーヌ=エ=マルヌ県バルビゾン
墓地 フランスセーヌ=エ=マルヌ県シャイイ=アン=ビエール墓地[1]
墓地座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯48度28分16.76秒 東経2度36分29.03秒 / 北緯48.4713222度 東経2.6080639度 / 48.4713222; 2.6080639
国籍 フランス
運動・動向バルビゾン派
流派写実主義(レアリスム)
芸術分野絵画
出身校エコール・デ・ボザール
代表作『落穂拾い』、『種まく人』、『晩鐘
受賞レジオンドヌール勲章(1868年)
後援者アルフレッド・サンシエ
影響を受けた
芸術家コロー
影響を与えた
芸術家印象派ファン・ゴッホダリ[2]
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ジャン=フランソワ・ミレー(フランス語: Jean-Francois Millet[3][注釈 1]1814年10月4日 - 1875年1月20日[4])は、19世紀フランス画家バルビゾン派の代表的画家の1人とされ、特に農民画で知られる。
概要

ミレーは、ノルマンディー地方のグリュシーで、農家に生まれた。長男として跡継ぎになることが期待されていたが、18歳の頃から、シェルブールの画家のところで絵の修業を始めた(→少年時代)。教師から才能を見出され、奨学金を得て、1837年からパリエコール・デ・ボザール(国立美術学校)に行き、歴史画家ポール・ドラローシュの下で学んだ。しかし、1839年ローマ賞に落選すると、学校を去った(→エコール・デ・ボザール)。1840年に肖像画でサロン・ド・パリに初入選し、シェルブールで肖像画の注文を次々受けて制作した。最初の妻ポーリーヌと結婚し、共にパリに移ったが、1844年、ポーリーヌを亡くした(→肖像画家としての活動)。いったんパリから帰省するが、実家の反対を押し切って交際を始めたカトリーヌとともに、1845年、再びパリに出て、肖像画や女性の裸体画を制作して生活した。この頃、後のバルビゾン派の同志となるテオドール・ルソーコンスタン・トロワイヨン、支援者となるアルフレッド・サンシエと出会った。1847年のサロンに神話画を入選させた(→再度のパリ行き)。1848年、2月革命によって共和派が実権を握ると、美術界の民主化が進み、ミレーは政治的支援者を得た。この年のサロンに出品した農民画『箕をふるう人』が好評を博し、ミレーは政府注文を受けることになった(→1848年サロンでの成功)。

1849年、パリでコレラが大流行したことや、ミレーの政治的支援者が失脚したことから、ミレーは、バルビゾンに移住し、先に滞在していたルソーらの仲間入りをした。1851年のサロンに『種まく人』を提出して入選したが、これが農民の悲惨な生活を訴える政治的なメッセージと受け取られ、左右両派の激しい論争の的となった(→バルビゾン移住)。第二帝政の時代となった1850年代には、農民画を中心にサロンへの応募を続け、その中には高評価を得るものもあったが、酷評される作品もあった。1857年のサロンに『落穂拾い』を出品し、これもまた政治的な議論を巻き起こした(→第二帝政前期(1850年代))。1860年代も好評と不評の波を経験したが、1864年のサロンに出品した『羊飼いの少女(英語版)』が絶賛され、これを機にミレーの評価は一気に高まった。1865年以降、コレクターからパステル画の注文を大量に受け、特に数多くの風景画を明るい色彩のパステルで描くようになり、新しい境地が生まれた。1867年パリ万国博覧会では、一室を与えられて9点の代表作を展示し、巨匠としての名声を確立した(→第二帝政後期(1860年代))。

1860年代末からは体調悪化に悩まされながら、「四季」連作などに取り組んだ。1870年普仏戦争1871年パリ・コミューンでシェルブールに疎開したことなどで、「四季」連作の制作は中断を余儀なくされたが、亡くなった親友ルソーへの鎮魂の意味を込めたと言われる名作『春』を完成させている。1874年頃から急速に健康状態が悪化し、1875年に亡くなった(→晩年)。

ミレーの作品は、生前から徐々に市場での評価が高まった。ミレーが1860年に1000フランで売却した『晩鐘』は、死後の1889年に55万3000フランで落札されるに至った。20世紀後半には、印象派・ポスト印象派の画家には及ばないが、ニューヨーク・サザビーズのオークションで数十万ドルという高値で取引されるようになった(→市場での評価)。他方、サンシエの伝記やそれに基づくロマン・ロランによるミレー偉人伝を基に、清貧の農民画家という脚色された「ミレー神話」が語られるようになり、フィンセント・ファン・ゴッホもサンシエの伝記を読んで影響を受けた1人である(→ミレー神話の流布)。特に、ミレー作品にプロテスタンティズムに通じるものを感じ取ったアメリカ人や、偉人伝に影響された日本人の間では、フランス以上にミレー熱が高まった(→アメリカ日本)。

ミレーの油彩画は約400点、パステル画は約200点と言われている(→カタログ)。風俗画や風景画は、19世紀半ばのフランス絵画を支配していたアカデミズム絵画では低い評価しか与えられていなかったが、ミレーは、コローや他のバルビゾン派の画家とともに、都市を出て、田園に取材した作品を多く制作した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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