ジャン=バティスト・ビオ
Jean-Baptiste Biot
生誕1774年4月21日
フランス王国 パリ
死没 (1862-02-03) 1862年2月3日(87歳没)
フランス帝国 パリ
国籍 フランス
研究分野物理学、天文学、数学
主な業績ビオ・サバールの法則
影響を
与えた人物ルイ・パスツール
プロジェクト:人物伝
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熱気球に乗るビオとゲイ=リュサック
ジャン=バティスト・ビオ(Jean-Baptiste Biot、1774年4月21日 - 1862年2月3日)は、フランスの物理学者、天文学者、数学者。1800年代の初めに電流と磁場の関係を研究し、ビオ・サバールの法則に名前が残っている。隕石の研究、熱気球による飛行、偏光の研究等でも知られている。 パリ生まれ。パリの名門高校であるリセ・ルイ=ル=グランを卒業後、1794年にフランス国立土木学校に入学。一時期は大砲を研究していた。その後オワーズ県ボーヴェの工芸学校(1797年)やエコール・ポリテクニーク(理工科学校)などの教員を務めた後、1801年に29歳でコレージュ・ド・フランスの教授に就任した。さらに1803年には科学アカデミーの会員に選出された。同年、1人息子が誕生。 1804年、ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックと熱気球にのって5000mまで上昇し大気圧の研究を行った。 1806年にピエール=シモン・ラプラスの指導によりフランソワ・アラゴとともに子午線弧長の測量(これに基づいてメートルの正確な長さを規定する目的があり、ジャン=バティスト・ジョゼフ・ドランブルによって始められたが、ピエール・メシャンの死で中断していた)を完成する任務を与えられ、アラゴと共にパリを発ちスペインで作業を開始した(ビオは途中で帰りアラゴだけが作業を続けた)。 この他に雲母の研究も行い、黒雲母(biotite)に命名された。月のクレーターにも命名されている。 ビオはレジオンドヌール勲章の一員でもあり、1814年にシュヴァリエ、1849年にはコマンドゥールに選ばれた。1816年にはスウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に選ばれた。1815年に王立協会の外国人会員に選ばれ、1840年には同会からランフォード・メダルを授与された[1]。 1862年、パリで死去。 ビオは科学の発展に様々な面で貢献しており、トーマス・クーンが言うような「パラダイムシフト」を物理学にもたらした。
経歴
主な業績Essai de geometrie analytique, 1826