ジャン=ジョゼフ・ド・モンドンヴィル
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ジャン=ジョゼフ・ド・
モンドンヴィル
Jean-Joseph de Mondonville

基本情報
生誕1711年12月25日洗礼
フランス王国、ナルボンヌ
死没 (1772-10-08) 1772年10月8日(60歳没)
フランス王国、ベルヴィル
職業ヴァイオリニスト、作曲家

ポータル クラシック音楽

ジャン=ジョゼフ・ド・モンドンヴィルまたはジャン=ジョゼフ・カッサネア・ド・モンドンヴィル(Jean-Joseph de Mondonville, aka Jean-Joseph Cassanea de Mondonville, 1711年12月25日洗礼 ナルボンヌ - 1772年10月8日 パリ近郊のベルヴィル)は、フランスヴァイオリニスト作曲家。世代的にはジャン=フィリップ・ラモーより若く、生前は大変な成功を収めた。ルイ=クロード・ダカンの子ピエール=ルイ・ダカンはこう言っている。

「もし私がラモーになることができないなら、モンドンヴィル以外になりたい者は他にいない。[1]

目次

1 生涯

2 音楽

2.1 教会音楽

2.2 オペラ


3 代表作

3.1 器楽曲

3.2 オペラ

3.3 グラン・モテ


4 レコーディング

5 脚注

6 参考文献

7 外部リンク

生涯

モンドンヴィルは南西フランスのナルボンヌに生まれた。貴族の家だったが、その時には既に厳しい状況に陥っていた。1733年、モンドンヴィルは公妾ポンパドゥール夫人パトロネージュを得ようとパリに行き、コンセール・スピリチュエルのヴァイオリニストといった、いくつかのポストを手に入れた。

モンドンヴィルの最初の作品は、ヴァイオリン・ソナタ集で1733年に出版された。それから、宮廷礼拝堂ならびに王の寝室(Chambre du Roi)で、ヴァイオリニストとして100回あまりの演奏をした。モンドンヴィルの作曲したグラン・モテも数曲演奏され、大絶賛を受けた。1740年1744年には、宮廷礼拝堂の監督官(sous-maitre)に任命された。1740年代はヴァイオリニストとしての活動を続けながら、そのかたわらで王立音楽アカデミーコンセール・スピリチュエルのために、オペラやグラン・モテを作曲し、またTheatre des Petits-Cabinetsとも提携した。1755年ジョゼフ=ニコラ=パンクラス・ロワイエの死を受けて、モンドンヴィルはコンセール・スピリチュエルの監督を引き継いだ。モンドンヴィルは60歳で、ベルヴィルで亡くなった[2]
音楽
教会音楽

1734年から1755年にかけて、モンドンヴィルは17曲のグラン・モテを作曲し、そのうち7曲は現存している。モテ『主に向かって喜び歌おう』は、1740年、モンドンヴィルが宮廷礼拝堂音楽監督(Maitre de musique de la Chapelle)の役職にあった時に作られた。管弦楽にも声楽にも精通していたおかげで、モンドンヴィルは、革命前の宮廷礼拝堂(Chapelle royale)のレパートリーの中で最も権威のあったグラン・モテに、音色の強烈さと、これまでになかった劇的クオリティを導入することができた。
オペラ

モンドンヴィルの最初の舞台作品、フランスのバロック・オペラの軽やかな形式、つまりOpera-balletとPastorale heroiqueを持った『Isbe』こそ失敗に終わったものの、『Le carnaval de Parnasse』や『Titon et l'Aurore』、『Daphnis et Alcimadure』(台本もモンドンヴィル。モンドンヴィルの生まれ故郷の方言ラングドシアン語で書かれている)[3]はモンドンヴィルの人気のあるオペラである。『Titon et l'Aurore』は、1750年代にパリで沸き起こったフランス・オペラ派・イタリア・オペラ派のブフォン論争で重要な役を演じた。フランス派は『Titon et l'Aurore』の初演は大成功だったと主張したが、イタリア派は上演場所のTheatre de l'Academie Royale de Musiqueに兵隊をぎっしり詰めこまさせた結果だと言い返した[4]。モンドンヴィルは深刻なフランス・オペラ(音楽の悲劇 Tragedie en musiqueとして知られていた)に手を出して、失敗した。「フランス・オペラの父」ジャン=バティスト・リュリ1675年に作曲した『テセウス』の台本を再使用して、新たな『テセウス』を作ったのだ。大胆にもモンドンヴィルは、最も愛されているリュリの音楽を、何の敬意も払わず、差し替えてしまった。1765年の宮廷での初演は賛否両論で、2年後の一般上演では、リュリの曲に戻せと観客が言い出して、打ち切られてしまった。もしかしたら、モンドンヴィルはちょっとだけ時代の先を進んでいたのかも知れない。1770年代になって、グルックの『アルミード』のように、リュリの悲劇を新しい音楽に直すことが流行になったのだから。
代表作
器楽曲

ヴァイオリン・ソナタ Op.1(
1733年

トリオ・ソナタ Op.2

クラヴサン・ソナタ小品集 Op.3(1734年。後に『管弦楽ソナタ』として管弦楽化)

Op.4の序文は『Les sons harmoniques』の演奏に関して書かれたテキストの最初の証拠を含んでいる(パリ&リール、1738年

声またはヴァイオリンを伴うクラヴサン小品集 Op.5(1748年

オペラ

Isbe(
1742年

Bacchus et Erigone(1747年

Le carnaval du Parnasse(1749年

Venus et Adonis(1752年

Titon et l'Aurore(1753年

Daphnis et Alcimadure(1754年

Les fetes de Paphos(1757年

テセウス(1765年

Les projets de l'Amour(1771年

グラン・モテ

現存している9曲のみ。

主は王 Dominus regnavit decorum(詩篇第92)(
1734年

Jubilate Deo(詩篇第99)(1734年)

Magnus Dominus(詩篇第47)(1734年)

Cantate domino(詩篇第149)(1743年

主に向かって喜び歌おう Venite exultemus Domino(詩篇第94)(1743年)

Nisi Dominus aedficavit(詩篇第126)(1743年)

深き淵より De profundis(詩篇第129)(1748年

Coeli enarrant gloria(詩篇第18)(1750年

イスラエルがエジプトを出た時 In exitu Israel(詩篇第113)(1753年

レコーディング

Titon et l'Aurore -
マルク・ミンコフスキ指揮、ミュジシャン・デュ・ルーヴルエラート、1992年)

Les fetes de Paphos - クリストフ・ルセ指揮、レ・タラン・リリクデッカ、オワゾリール(L'Oiseau-Lyre)、1997年)


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