ジャン=クロード・ユンケル
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ジャン=クロード・ユンケル
Jean-Claude Juncker

2019年10月
欧州連合
第12代 欧州委員会委員長
任期2014年11月1日2019年11月30日
欧州理事会議長ヘルマン・ファン・ロンパウ
ドナルド・トゥスク
内閣ユンケル委員会
ルクセンブルク
第23代 首相
任期1995年1月20日2013年12月4日
大公ジャン
アンリ
内閣ジャン=クロード・ユンケル内閣
ルクセンブルク
第23代 財務大臣
任期1989年7月14日2009年7月23日
首相ジャック・サンテール
ジャン=クロード・ユンケル

出生 (1954-12-09) 1954年12月9日(69歳)
ルクセンブルク ルダンジュ
政党キリスト教社会人民党
出身校ストラスブール大学
配偶者クリスティアン・フリッシング
子女無し
署名

ジャン=クロード・ユンケル(Jean-Claude Juncker、1954年12月9日 - )は、ルクセンブルク政治家キリスト教社会人民党元党首。第12代欧州委員会委員長(在任: 2014年11月1日 - 2019年11月30日)、首相、財務大臣を務めた。
政界入りまで

1954年12月9日にルダンジュで誕生し、少年時代の大半をベルヴォーで過ごした。父親はドイツ国防軍に徴発されて第二次世界大戦を戦い、終戦後は製鋼工となり、キリスト教労働組合連盟に入る。ユンケルはベルギーのクレールフォンテーヌで学び、ルクセンブルクに戻ったのちはリセ・ミシェル・ロダンジュでヨーロッパ・バカロレアを得た。この時期と重なる1974年、ユンケルはキリスト教社会人民党に入党する。ユンケルはストラスブール大学法学を学び、1979年に法学修士を取得する。1980年にルクセンブルクの弁護士会に入るも、ユンケルは実際に弁護士として活動しなかった。
政界入り後

ルクセンブルクに戻ったユンケルはその演説の能力が買われ、政務官に抜擢される。1984年の選挙でユンケルは代議院議員に当選し、サンテール政権の労働大臣に任命される。労働大臣就任によってユンケルは欧州諸共同体理事会の会合で議長を務める機会を得ることになり、このことはユンケルのヨーロッパ連邦主義の現れとなった。

1989年の総選挙の直前にユンケルは交通事故で重傷を負い、2週間にわたって昏睡状態となった。しかしながらユンケルは選挙までに回復し、再び代議院議員に当選して労働大臣に加えて財務大臣を兼ねることとなった。ルクセンブルクでは、財務大臣を経験するということは首相候補の通過儀礼と考えられているため、ユンケルが将来首相となることが確実となったということを示し、政治評論家からはサンテールがユンケルを自らの後継者として育てることを明らかにしたと評した。またこのときユンケルは世界銀行総務の就任を受諾している。
首相就任まで

ユンケルの2回目の当選で、ヨーロッパ連合におけるユンケルの地位が高まった。ユンケルは経済・財務理事会の議長を務め、マーストリヒト条約の準備で重要な役割を果たした。特にユンケルは後のユーロ創設にいたる経済通貨統合に関する規定で大きな影響力を発揮し、また1992年に自身の手で条約に署名した。この時までにユンケルはキリスト教社会人民党の議会代表となっていた。

1994年の選挙でユンケルは3選を果たし、その後も大臣の職を続けた。サンテールが次期欧州委員会委員長に指名されるための準備に入ったことで、選挙から.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}僅(わず)か6か月後の1995年1月20日、ジャン大公はユンケルを首相に任命し、ユンケルはルクセンブルク社会労働党との連立政権を樹立することとなった。この頃ユンケルは国際通貨基金の総務に就任することと引き換えに世界銀行総務を辞任したが、従来からの大臣職は引き続き兼務することとなった。
首相在任中

首相としての1期目はルクセンブルクの世界的な地位の向上のために両国関係を強化して経済基盤を整備することに傾注し、度々外国を公式訪問した。1996年12月にダブリンを訪問した際に、ユンケルは自らによるヨーロッパ連合の経済通貨統合の政策をめぐって、フランスのシラク大統領とドイツのコール首相の対立を仲介した。メディアはまとまりそうになかったこの2人の合意を成し遂げたユンケルを「ダブリンのヒーロー」と囃し立てた。


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