ルクセンブルクの政治家ジャン=クロード・ユンケルJean-Claude Juncker
アーヘン大学
ジャン=クロード・ユンケル(Jean-Claude Juncker、1954年12月9日 - )は、ルクセンブルクの政治家。キリスト教社会人民党元党首。現在、欧州委員会委員長。1995年から2013年まで、ジャック・サンテールの後任として同国の首相を18年以上に亘り務めた。また、1989年7月14日から2009年7月23日まで財務大臣を務めた。 ルダンジュ ルクセンブルクに戻ったユンケルはその演説の能力が買われ、政務官に抜擢される。1984年の選挙でユンケルは代議院議員に当選し、サンテール政権の労働大臣に任命される。労働大臣就任によってユンケルは欧州諸共同体理事会の会合で議長を務める機会を得ることになり、このことはユンケルのヨーロッパ連邦主義の現れとなった。 1989年の総選挙の直前にユンケルは交通事故で重傷を負い、2週間にわたって昏睡状態となった。しかしながらユンケルは選挙までに回復し、ふたたび代議院議員に当選して労働大臣に加えて財務大臣を兼ねることとなった。ルクセンブルクでは、財務大臣を経験するということは首相候補の通過儀礼と考えられているため、ユンケルが将来首相となることが確実となったということを示し、政治評論家からはサンテールがユンケルを自らの後継者として育てることを明らかにしたと評した。またこのときユンケルは世界銀行総務の就任を受諾している。 ユンケルの2回目の当選で、欧州連合におけるユンケルの地位が高まった。ユンケルは経済・財務理事会 1994年の選挙でユンケルは3選を果たし、その後も大臣の職を続けた。サンテールが次期欧州委員会委員長に指名されるための準備に入ったことで、選挙からわずか6か月後の1995年1月20日、大公ジャンはユンケルを首相に任命し、ユンケルはルクセンブルク社会労働党との連立政権を樹立することとなった。このころユンケルは国際通貨基金の総務に就任することと引き換えに世界銀行総務を辞任したが、従来からの大臣職は引き続き兼務することとなった。 首相としての1期目はルクセンブルクの世界的な地位の向上のために2国間関係を強化して経済基盤を整備することに傾注し、たびたび外国を公式訪問した。1996年12月にダブリンを訪問したさいに、ユンケルは自らによる欧州連合の経済通貨統合の政策をめぐってフランス大統領ジャック・シラクとドイツ連邦首相ヘルムート・コールの対立を仲介した。メディアはまとまりそうになかったこの2人の合意を成し遂げたユンケルを「ダブリンのヒーロー」と囃し立てた。 1997年、ルクセンブルクはユンケル政権が発足して初めてとなる欧州連合議長国となった。ユンケルはヨーロッパの社会的な統合の動きを支持し、「ルクセンブルク・プロセス」と呼ばれる、統合ヨーロッパの失業対策を取りまとめた。また経済通貨統合構想を扱う財務相による非公式グループ "Euro 11" を進めた。このような活動に対して1998年にユンケルは "Vision for Europe Award" を受賞した。 1999年の総選挙の結果、連立の相手が社会労働党から民主党
目次
1 政界入りまで
2 政界入り後
3 首相就任まで
4 首相在任中
5 欧州委員長就任後
6 健康状態
7 脚注
政界入りまで
政界入り後
首相就任まで
首相在任中 ユンケル(右)とロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチン(2007年5月24日)
2005年、ユンケルは2度目となる持ち回り制の欧州理事会議長となる。この議長の任期満了後にルクセンブルクでは欧州憲法条約の批准の是非を問う国民投票が実施されたが、それにあたってユンケルは自らの政治生命をこの国民投票に賭け、反対が多数を占めた場合には首相辞任を公言した。投票率が 88% となったこの国民投票の開票の結果、賛成が 56.5% にのぼった。ユンケルのヨーロッパ統合に対する功績から、2006年にはカール大帝賞を受賞した。
2009年、ユンケルはホロコーストを否認する聖ピオ十世会の司教リチャード・ウィリアムソンに対する破門が撤回されたことに対して非難を表明した[1]。
2013年7月11日、ルクセンブルクの情報機関による違法盗聴疑惑を議会から追及され、辞意を表明。10月の総選挙をアンリ大公に対して要請した。10月の総選挙でキリスト教社会人民党は第一党となり、ユンカーは5期目となる首相職を一旦は受諾した。しかし、民主党のグザヴィエ・ベッテル代表が三党の連立合意を取りまとめ、議会で多数派を形成したことから、政権を明け渡すこととなった。その当時、1995年から18年以上も首相の座にあったユンカーは、欧州で最も在任期間の長い首脳だった[2]。