ジャン=クロード・キリー
ジャン=クロード・キリー(2011年)
名前
本名Jean-Claude Killy
基本情報
国籍 フランス
生年月日 (1943-08-30) 1943年8月30日(80歳)
生誕地 フランス オー=ド=セーヌ県サン=クルー
居住地 スイス ジュネーヴ
身長178 cm
ワールドカップ戦歴
デビュー年国際試合デビューは1958年、W杯は開始年の1967年
引退年1968年(アマチュア引退)
総合優勝1967年、1968年
獲得メダル
オリンピック
金1968滑降
金1968大回転
金1968回転
アルペンスキー世界選手権
金1966滑降
金1966複合
金1968滑降
金1968大回転
金1968回転
金1968複合
ジャン=クロード・キリー(Jean-Claude Killy, 1943年8月30日 - )は、フランス出身で1960年代後半に活躍した元アルペンスキー選手。
1968年グルノーブルオリンピックにおいて出場した3種目すべてで優勝し、アルペンスキー世界選手権では6個の金メダルを獲得、さらにアルペンスキー・ワールドカップでは1967年・1968年の2シーズン連続で総合優勝を果たすなど圧倒的な強さを誇り、“王者キリー”(King Killy) の異名を取った。
引退後はカーレーサーやCM・映画出演、実業家などの活動を経て、国際スキー連盟や国際オリンピック委員会などで要職を務めた。 フランスが第二次世界大戦中ナチス・ドイツの占領下にある中、パリ郊外の町オー=ド=セーヌ県サン=クルーに生まれる。しかし、終戦後の1945年、一家でサヴォワ県ヴァル=ディゼールに移り、以降この村で育った。アイルランド系でアルザス出身の父・ロベールはイギリス空軍の元戦闘機パイロットで[1]、この村にスポーツ用品店を開き、後にホテル経営も手がけるようになる。アルプス山脈の谷間に位置するヴァル=ディゼールはウィンタースポーツの盛んな村で、キリーも3歳の時にスキーを始め、11歳からはレースにも出場するようになっていた。 1950年、母親のマドレーヌが家族を捨てて他の男性と出奔したため、当時7歳だったキリーは姉のフランス、乳児だった弟・ミックとともに父・ロベールに育てられることになった。その後、家から130 km離れたシャモニーの寄宿学校に入学し、卒業後は夏の間税務署員として働き、冬はレースに出るという生活を送っていた。 1960年、フランスのジュニア代表チームに加わる。当時のキリーは、レースでは速かったが、たいていは途中棄権で終わることが多く、1960年代前半は順調とはいえなかった。 1961年12月、キリーは初めて国際レース(大回転)で勝利を挙げた。このレースは彼の地元ヴァル・ディゼールで開催され、しかもスタート順が39番目というきわめて不利な位置であったため、彼にとっては格別の勝利であった。この時キリーは18歳だった。 これを見たフランスチームのコーチは、キリーをシャモニーで開催される1962年アルペンスキー世界選手権の大回転に出場させることにした。この若い選手にとって絶好のデビュー戦となるだろうとコーチは考えたのである。ところが、出場選手に選ばれたことを知らなかったキリーは、世界選手権の3週間前、イタリア・コルティーナ・ダンペッツォでの滑降の大会に出場していた。いつものようにコースを大胆に攻めていったキリーは、ゴールまであと200 m足らずというところで転倒、すぐ起き上がって片方のスキーだけでゴールし、最速タイムを叩き出したものの、不運にも片足を骨折していた。結果、世界選手権は松葉杖をついて観戦することになった。 キリーが初めて国際舞台のトップに立ったのは、2年後の1964年、20歳の時にドイツ・ガルミッシュ=パルテンキルヒェンで行なわれたアールベルク・カンダハーレース
経歴
生い立ち
キャリア初期
全盛期グルノーブル五輪・滑降で優勝し、2位のギー・ペリヤ(左、フランス)、3位のジャン=ダニエル・ダトウィレル(右、スイス)とともに表彰台に立つキリー