ジャン・ヴァール
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ジャン・アンドレ・ヴァール
人物情報
生誕 (1888-05-15) 1888年5月15日
フランス マルセイユ
死没1974年6月19日(1974-06-19)(86歳)
出身校高等師範学校
学問
研究分野哲学
研究機関ソルボンヌ大学
学位博士
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ジャン・アンドレ・ヴァール(Jean Andre Wahl、1888年5月15日 - 1974年6月19日)はフランス哲学者。戦後フランスの哲学アカデミズムに大きな影響力をもった。
生涯
第二次世界大戦まで

1888年、マルセイユ生まれ。父が英語教師だった関係で、幼い頃から英語に親しむ。当時父親の同僚だったベルクソンは少年ジャンに才能を感じ、英米哲学などの知識を授けた[1]1907年高等師範学校に入学。卒業後はリセ・アンリ=マルタンで教師を務めるかたわら、学位論文を執筆。1920年、『英米多元論哲学』と『デカルト哲学における瞬間の観念の役割』の2本の学位論文によって博士号を取得。

学問的経歴としては、高等師範学校時代の教授ベルクソンの弟子として出発した。また、当時フランスではよく知られていなかったアメリカの多元論哲学者ウィリアム・ジェームズジョージ・サンタヤナについて、1920年に提出した学位論文で詳述。その後も多様な思想家に対して旺盛な好奇心を発揮。1926年プラトンの『パルメニデス』に現れる「一なるもの」の観念について考察。1929年コジェーヴの有名な講義に先駆けて、1930年代フランスヘーゲルの思想を紹介。また、キルケゴールの思想の紹介者としても知られ、この研究は1938年の著書『キルケゴール研究』に結実した。とりわけヘーゲル研究とキルケゴール研究は、当時のフランスの思想状況との関連で大きな反響を呼んだ。

1936年からソルボンヌ大学の教授を務めた。第二次世界大戦が始まり、パリが占領された際には脱出したが、ソルボンヌ大学の再開で呼び戻された。しかしヴィシー政権ユダヤ人法によって罷免され、1941年ゲシュタポに捕らえられて暴行を受け、サンテ監獄へ収監された[2]。さらにゲシュタポパリ郊外の都市ドランシーに設けられたユダヤ人強制収容所に収容されたが、赤痢の発生やアメリカからの教授招聘などいくつかの条件が重なって解放された[3]。その後、1942年から1945年までアメリカ合衆国に亡命した。
アメリカ亡命時代

アメリカ亡命時にヴァールは、グスタフ・コーエンとロックフェラー財団の協力を得て、ニューヨークに高等研究自由学校(Ecole Libre des Hautes Etudes)を創立。やがてマウント・ホリヨーク・カレッジの教授に就任し、亡命知識人たちの集まり「マウント・ホリヨークの十日間」を企画した。これはフランス・ブルゴーニュ地方ポンティニーにあるシトー会修道院で1910年から1939年までポール・デジャルダンが主宰していた十日間続く勉強会に倣って「アメリカ版ポンティニー」の名前でも知られる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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