ジャン・ロビック
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ジャン・ロビック

ジャン・ロビック(Jean Robic、1921年6月10日?1980年10月6日)は、フランスアルデンヌ県ヴージエ出身の元自転車競技選手。
経歴

プロのレースキャリアは1943年から1961年まで。

1947年第二次世界大戦後初の開催となったツール・ド・フランスにおいて劇的な大逆転優勝を演じる。最終第21ステージを前にして、総合首位はイタリアのピエール・ブランビラ、53秒差の総合2位に同じくイタリアのアルド・ロンコーニが続き、ロビックは2分58秒差の総合3位となっていた。最終ステージはカーンからパリまでの257km。残りあと140km地点において、西フランスチームのロビックは、フランスナショナルチームのメンバーで、総合5位につけていたエドゥアール・ファシュレトネールと呼応してアタックに打って出た。すると総合1、2位のイタリア勢は互いに牽制するあまり反応が遅れ、ステージ制覇を果たすことになるブリック・ショットに対し、ロビック、ファシュレトネールは7分36秒差でゴールしたが、ブランビラ、ロンコーニは、20分41秒遅れでゴールするのがやっと。この結果、ロビックが、ツール・ド・フランス史上初の最終ステージにおけるマイヨ・ジョーヌ奪取に成功した。

その後ツール・ド・フランスでは、1968年ヤン・ヤンセンが、1989年グレッグ・レモンがいずれも最終ステージで逆転して総合優勝を果たすことになるが、この2例はいずれも個人タイムトライアルでの逆転であり、マスドスタート形式での逆転というのは、2007年現在、ロビックが逆転を決めたこの一例のみである。

1950年、第1回のシクロクロス世界選手権が開催されたが、ロビックはプロ部門の初代優勝者となった。一方この年のツール・ド・フランスの第11ステージにおいて、イタリアのジーノ・バルタリに転倒させられたことがきっかけとなり、バルタリを含むイタリアナショナルチーム全選手が翌第12ステージ途中で棄権するという事態に繋がった。

気難しい性格が災いし、引退後しばらく、第二の人生をなかなか歩めずにいたという。1980年、フランス中北部のクレイスイイで交通事故に遭い死去した。なお、ロビックが1947年のツール総合優勝を決めるきっかけとなった地点であるルーアンに、ロビックの記念碑が建てられている。
外部リンク



ジャン・ロビック - サイクリングアーカイヴス(英語)










ツール・ド・フランス総合優勝者

   




1903    モリス・ガラン
1904    アンリ・コルネ
1905    ルイ・トゥルスリエ
1906    ルネ・ポティエ
1907    ルシアン・プティブルトン
1908    ルシアン・プティブルトン
1909    フランソワ・ファベール

1910    オクタヴ・ラピーズ
1911    ギュスタヴ・ガリグー
1912    オディル・ドフレイエ
1913    フィリップ・ティス
1914    フィリップ・ティス
1915    第一次世界大戦
1916    第一次世界大戦
1917    第一次世界大戦
1918    第一次世界大戦
1919    フィルマン・ランボー

1920    フィリップ・ティス
1921    レオン・シウール
1922    フィルマン・ランボー
1923    アンリ・ペリシエ
1924    オッタビオ・ボテッキア
1925    オッタビオ・ボテッキア
1926    ルシアン・ビュイス
1927    ニコラ・フランツ
1928    ニコラ・フランツ
1929    モリス・デワール


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