ジャン・ルノワール
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この項目では、映画監督のジャン・ルノワールについて説明しています。作曲家 (fr:Jean Lenoir)については「ジャン・ルノワール (作曲家)」をご覧ください。

Jean Renoir
ジャン・ルノワール

生年月日 (1894-09-15) 1894年9月15日
没年月日 (1979-02-12) 1979年2月12日(84歳没)
出生地 フランス
パリ18区モンマルトル
死没地 アメリカ合衆国
カリフォルニア州ビバリーヒルズ
国籍 フランス
アメリカ合衆国
職業映画監督脚本家俳優
活動期間1924年 - 1969年
配偶者カトリーヌ・エスラン(1920年 - 1943年)
ディド・フレール(1943年 - 1979年)
著名な家族父:ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841年 - 1919年)
兄:ピエール・ルノワール(1885年 - 1952年)
弟:クロード・ルノワール(1901年 - 1969年)
息子:アラン・ルノワール(1921年生)
主な作品
牝犬』(1931年)
トニ』(1935年)
大いなる幻影』(1937年)
ゲームの規則』(1939年)

 受賞
アカデミー賞
名誉賞
1974年
ヴェネツィア国際映画祭
金獅子賞
1946年『南部の人
芸術貢献賞
1937年『大いなる幻影
国際賞
1951年『
全米映画批評家協会賞
特別賞
1974年
ニューヨーク映画批評家協会賞
外国語映画賞
1938年『大いなる幻影』
その他の賞
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞
監督賞
1945年『南部の人』
外国語映画賞
1938年『大いなる幻影』ルイ・デリュック賞
1937年『どん底

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ジャン・ルノワール(Jean Renoir、1894年9月15日 - 1979年2月12日)は、フランス映画監督脚本家俳優。印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールの次男で、ジャン・ルノアールと表記される場合もある。
来歴ピエール=オーギュスト・ルノワール作の『ガブリエルとジャン』(1895年)。右が幼いジャン・ルノワール。左の子守をする女性は、ジャンの母・アリーヌの従妹のガブリエル・ルナールで、ルノワール家の家政婦をしていた。

1894年9月15日、パリモンマルトルに父・ピエール=オーギュスト・ルノワールと母・アリーヌの次男として生まれる。幼いころに南フランスに移住し、父の絵のモデルを務めさせられていた。各地の学校を転々とし、ニースの大学で数学と哲学を学ぶ。第一次世界大戦には騎兵少尉として参戦し、後に偵察飛行隊のパイロットを務めたが、偵察中に片足を銃撃され、終生まで傷の痛みに悩まされていた。その療養中にD・W・グリフィスチャールズ・チャップリンらの作品を観て、映画に興味を持つ。1920年、前年に亡くなった父の絵のモデルをしていたカトリーヌ・エスランと結婚。大戦終結後は陶器を作っていたが、イワン・モジューヒンの『火花する恋』やエリッヒ・フォン・シュトロハイムの『愚なる妻』等の影響を受けて、映画監督を志す。

1924年、カトリーヌ主演の映画『カトリーヌ』に出資し、脚本を執筆する。同年にカトリーヌ主演の『水の娘』で監督デビューを果たす。1926年、『女優ナナ』を監督。高い評価を得、彼のサイレント期の代表作としたが、興行的には失敗し負債を抱え、父の絵を売却して借金返済を行う。1934年、季節労働者の姿をドキュメンタリータッチで描いた『トニ』を発表。徹底したリアリズムで描き、のちのネオレアリズモに影響を与えた。1937年には反戦映画の名作『大いなる幻影』を監督。他にも『のらくら兵』(1928年)、『どん底』(1936年)、『ゲームの規則』(1939年)など、興行的には失敗が多いものの傑作と評価されるべき作品を発表していき、ルネ・クレールジャック・フェデージュリアン・デュヴィヴィエマルセル・カルネとともに戦前期のフランス映画界を代表する映画監督となった。

1939年、イタリアに渡って『トニ』『ピクニック』で助手を務めた当時32歳のルキノ・ヴィスコンティを助監督にして『トスカ』の撮影を行ったが[注 1]、撮影中にイタリアが第二次世界大戦に参戦したため、製作を放棄してフランスに戻った。1940年にドイツがフランスに侵攻したため、戦火を避けるべく12月にマルセイユポルトガルを経由して、シボニー号に乗ってアメリカに渡った。この船でサン=テグジュペリと相部屋になり、親交を結ぶ(『人間の土地』を製作しようとしたが、ハリウッド上層部の無理解で実現しなかった)。12月31日にアメリカに到着し、ロバート・フラハティに迎えられる。同じ頃、ルネ・クレールやジュリアン・デュヴィヴィエも渡米し、ジャック・フェデールはスイスに逃れていた。20世紀フォックスと契約を結び、ハリウッドの撮影システムに困惑しながらも『南部の人』や『自由への闘い』等の作品を創り上げた。1946年に市民権を獲得するが、フランス国籍は捨てなかった。

1949年にインドに渡り、1951年に彼の初のカラー映画『』を撮る。父親譲りの美しい色彩感覚が評価され、ヴェネツィア国際映画祭国際賞を受賞した。1952年にイタリアで『黄金の馬車』を撮った後、フランスに戻り、『フレンチ・カンカン』を発表する。商業的な成功を収めることができたが、戦前のように作品は当たらず映画を撮る機会が次第になくなっていった。

1969年のテレビ映画『ジャン・ルノワールの小劇場』が最後の監督作品となり、その後は亡命時代の知己を訪ねアメリカで暮らし、終生フランスに戻ることはなかった。

1974年に『ジャン・ルノワール自伝』を出版。翌1975年にアカデミー賞名誉賞ハワード・ホークスとともに受賞。同年、レジオンドヌール勲章コマンドゥールを受章。

1979年2月12日、ビバリーヒルズの自宅で死去。アメリカで失意の底にあったルノワールを精神面で支えていたのは、ルノワールを師と仰ぐヌーヴェル・ヴァーグの旗手フランソワ・トリュフォーだった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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