ジャン・リカルドゥー
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ジャン・リカルドゥー
Jean Ricardou
ジャン・リカルドゥー(左)とクロード・シモン(スリジー・シンポジウムで)
誕生 (1932-06-17) 1932年6月17日
フランスカンヌ
死没 (2016-07-23) 2016年7月23日(84歳没)
フランスカンヌ
職業作家文学言語理論
言語フランス語
ジャンル小説評論
文学活動テル・ケルヌーヴォー・ロマン
代表作評論『言葉と小説 - ヌーヴォー・ロマンの諸問題』、『小説のテクスト - ヌーヴォー・ロマンの理論のために』
主な受賞歴フェネオン賞(フランス語版)
デビュー作小説『カンヌ展望台』
影響を受けたもの

クロード・シモンアラン・ロブ=グリエポール・ヴァレリーレーモン・ルーセル

公式サイトFonds Jean Ricardou
ウィキポータル 文学
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ジャン・リカルドゥー(Jean Ricardou、1932年6月17日 - 2016年7月23日)は、フランス小説家文学言語理論家。フィリップ・ソレルスを中心とするテル・ケルアラン・ロブ=グリエに代表されるヌーヴォー・ロマンの2つの前衛文学運動に関わり、とりわけ、ヌーヴォー・ロマンの理論家として知られる。毎年夏にスリジー=ラ=サル国際文化センター(フランス語版)で開催される国際シンポジウムを主宰し、1988年から27年にわたって独自の「テクスティック」概念に基づくセミナーを担当した。
生涯
背景

1932年6月17日、南仏アルプ=マリティーム県カンヌに生まれる[1][2]。1950年にバカロレアを取得し、1951年にパリ師範学校(小学校教員養成学校)に入学。1953年に初等教育教員資格証書を取得し、パリ郊外サン=ドニの小学校で3年間、教鞭を執った[3]

学生時代に出会ったジャン・チボードー(フランス語版)とは、この後1950年代後半にドミニク・ド・ルー(フランス語版)が創刊した『カイエ・ド・レルヌ』誌(ルーが1961年に創設したレルヌ(フランス語版)出版社の前身)[4]、および、1960年代以降はフィリップ・ソレルスとジャン=エデルン・アリエ(フランス語版)が創刊した『テル・ケル』誌において活動を共にすることになる。
ロブ=グリエとの出会い

1955年にアラン・ロブ=グリエのヌーヴォー・ロマンの作品『覗くひと』に出会ったことが重要な転機となった。『覗くひと』はロブ=グリエの第3作だが、1949年に執筆された処女作『弑逆者』はある大手出版社に拒否され[5]、1953年の『クリティック(フランス語版) (批判)』誌(1946年にジョルジュ・バタイユが創刊、深夜叢書刊)[6]サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』の書評を掲載したのを機に、1953年に深夜叢書からヌーヴォー・ロマンの先駆けとされる処女作『消しゴム』を発表。ロラン・バルトに絶賛され、翌1954年末から深夜叢書の文芸顧問を務めていた[7]。以後、クロード・シモンの『風』(1957年)以降の作品、ミシェル・ビュトールの処女作『ミラノ通り』(1954年)から『時間割』(1956年)、『心変わり』(1957年)がすべて深夜叢書から刊行されることになるが[8]、リカルドゥーが『覗くひと』に興味を持ったのは、「理解不能」と書かれたほんの10行ほどの書評を読んだときであった[9]。リカルドゥーはこれを機に、深夜叢書刊行のシモン、ビュトールらの小説を読み、1958年にロブ=グリエに手紙を書いて会う機会を得た[3]
ソレルスとの出会い - テル・ケル

さらにロブ=グリエを介して若手作家のフィリップ・ソレルス(24歳)に出会い、彼がジャン=エデルン・アリエ(フランス語版)とともに1960年に創刊した前衛文学雑誌『テル・ケル』および叢書スイユ出版社刊)に参加し、1961年春号(第5号)に「ストリップ・ティーズの描写」を寄稿[10]。1962年にはソレルス、リカルドゥー、チボードー、作家・哲学者ジャン=ピエール・ファイユ、作家・美術評論家のマルスラン・プレネ(フランス語版)、ダンテの研究者ジャクリーヌ・リセ(フランス語版)、小説家・写真家のドゥニ・ロッシュ(フランス語版)によって新編集委員会が結成された[11]。『テル・ケル』誌は1982年に終刊となり、ソレルスを中心とする編集部は新たに『ランフィニ(フランス語版)』誌を創刊することになるが、主な寄稿者であるロラン・バルト、フランシス・ポンジュジャック・デリダミシェル・フーコージャック・ラカンらほか[12][13][14]、当初はロブ=グリエ、ビュトール、ナタリー・サロートらヌーヴォー・ロマンの作家も参加していた[10]

『テル・ケル』誌はまもなくフランス共産党を批判し、毛沢東主義を支持したことで内部対立が生じ、一部の寄稿者が脱会した[13][12][15]。リカルドゥーの代表作『ヌーヴォー・ロマンの諸問題』(1967年)と『ヌーヴォー・ロマンの理論のために』(1971年)はいずれもスイユ社のテル・ケル叢書として刊行されたが、彼はこれ以後、テル・ケル派から離れ、独自の活動に専念することになる(後述)。
ヌーヴォー・ロマンの理論

深夜叢書のロブ=グリエ、スイユ社テル・ケル叢書のソレルスとの活動を通じて、他の雑誌にも寄稿するようになり、『クリティック』誌にクロード・シモンの『フランドルへの道』に関する評論(文学理論)「崩壊における秩序」やクロード・オリエ(フランス語版)の『治安維持』に関する「描写の冒険と災難」、『新フランス評論』(ジャン・ポーランマルセル・アルラン共同編集)に「アラン・ロブ=グリエの描写と意識下」やビュトールの『目録』、『段階』に関する「小説と段階」などを寄稿した(『ヌーヴォー・ロマンの諸問題』所収)[16]

1961年にはヌーヴォー・ロマンの影響を受けた処女作『カンヌ展望台(L'Observatoire de Cannes)』を深夜叢書から発表し、同社刊行の『メディアシオン(媒介)』誌(季刊)の編集委員に就任した[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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