ジャン・ポーラン
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ジャン・ポーラン
Jean Paulhan
ジャン・ポーラン(1967年)
ペンネームジャン・ゲラン、マースト
誕生ジャン・オーギュスト・ポーラン
(1884-12-02) 1884年12月2日
フランスニーム
(オクシタニー地域圏ガール県)
死没 (1968-10-09) 1968年10月9日(83歳没)
フランスヌイイ=シュル=セーヌ
職業言語学者、作家文芸評論
教育博士
最終学歴ソルボンヌ大学
ジャンル小説文芸評論言語学随筆
文学活動ダダイズムシュルレアリスムピュリスムアール・ブリュットアンフォルメル
代表作『メリナ族のハインテーニ』
『タルブの花 ― 文学における恐怖政治』
『詩の鍵』
『ブラック ― 様式と独創』
主な受賞歴レジオンドヌール勲章グラントフィシエ、アカデミー・フランセーズ文学大賞、クロワ・ド・ゲール勲章(フランス語版)、レジスタンス勲章(フランス語版)
親族フレデリック・ポーラン(フランス語版)
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ジャン・ポーラン(Jean Paulhan、1884年12月2日 - 1968年10月9日)は、フランス言語学者、作家文芸評論家。アカデミー・フランセーズ会員。戦前・戦後の30年にわたってアンドレ・ジッドらが創刊した『新フランス評論』誌の編集長を務め、戦時中は対独レジスタンスに参加し、地下出版の『レットル・フランセーズ (フランス文学)』紙を創刊した。ルイ・アラゴンポール・エリュアールアンドレ・ブルトンアントナン・アルトーらのシュルレアリスム詩人アメデエ・オザンファンジャン・デュビュッフェらの前衛芸術家を支援し、『O嬢の物語』の序文を執筆して刊行にこぎつけるなど、「新人発掘の名人」[1]、「フランス文学の黒幕」[2]と呼ばれた。マダガルカルメリナ族の民衆詩ハインテーニ(英語版)の研究、『タルブの花』に代表される文学言語の研究でも知られる。
背景

ジャン・ポーランは1884年12月2日、南仏ガール県県庁所在地ニームオクシタニー地域圏)で哲学者フレデリック・ギヨーム・ポーラン(フレデリック・ポーラン(フランス語版)) (1856-1931) とジャンヌ・アンリエット・テロン (1863-1944) の子ジャン・オーギュスト・ポーランとして生まれた。1894年から1906年のドレフュス事件において、父フレデリックは終始一貫してドレフュス派であった[3]司書としてニーム図書館に勤務していたが、1896年12月に辞職して上京。一家はパリ近郊のジュヴィジー=シュロルジュ(フランス語版)(エソンヌ県)に居を構えた。父フレデリックは執筆活動に専念。母ジャンヌはパリ5区下宿屋を営み、主に中東欧からの留学生に部屋を貸していた。1911年に結婚することになるポーランドウッチ出身のサロメア(サラ)・プルサックはこうした間借人の一人であり、パリで医学を勉強していた[4]

ジャン・ポーランは1902年にリセ・ルイ=ル=グランを卒業。修辞学哲学を専攻した。1904年からサンタンヌ病院(フランス語版)の精神科でジョルジュ・デュマ(フランス語版)に師事した。1905年にソルボンヌ大学文学・哲学の学士号を取得。当時は徴兵制が敷かれており、ポーランはムラン第91歩兵連隊に配属された。1906年からアグレガシオン(教員一級免許)取得のための奨学金を受け、1907年に受験したが不合格。中国語の勉強を始めた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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