ジャン・ボードリヤール
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ジャン・ボードリヤール
Jean Baudrillard
ジャン・ボードリヤール(2004年
生誕 (1929-07-27) 1929年7月27日
フランス共和国ランス (マルヌ県)
死没 (2007-03-06) 2007年3月6日(77歳没)
フランスパリ
時代20世紀の哲学
地域西洋哲学
学派大陸哲学
マルクス主義、ポストマルクス主義
ポスト構造主義
研究分野認識論
倫理学
政治哲学
経済学経済
主な概念シミュラクラ現象、ハイパーリアル
影響を受けた人物

カール・マルクス
フリードリヒ・ニーチェ
ジークムント・フロイト
ノーバート・ウィーナー
マルセル・モース
クロード・レヴィ=ストロース
アンリ・ルフェーヴル
ロラン・バルト
ジョルジュ・バタイユ
ギー・ドゥボール
フィリップ・K・ディック
ホルヘ・ルイス・ボルヘス
マーシャル・マクルーハン
ミシェル・フーコー
コルネリュウス・カストリアディス
その他多数

影響を与えた人物

スラヴォイ・ジジェク
ウォシャウスキー兄弟
ヴィクトル・ペレーヴィン
その他多数

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ジャン・ボードリヤール(Jean Baudrillard、1929年7月29日 - 2007年3月6日)は、フランス哲学者思想家である。『消費社会の神話と構造』(La Societe de Consommation 1970)は現代思想に大きな影響を与えた。ポストモダンの代表的な思想家とされる[1]
経歴

マルヌ県ランスの小作農の家に生まれる。ちなみに、父親は下級官吏であった。1948年、ソルボンヌ大学に入学。当初の専攻はドイツ語

1962年、フェリックス・ガタリとともにフランス中国人民協会を設立。このころより、カール・マルクスベルトルト・ブレヒトの翻訳を発表する。

1966年、博士号を取得。博士論文は『物の体系』で、審査員はロラン・バルトピエール・ブルデューアンリ・ルフェーブル。パリ大学ナンテール校でルフェーブルの助手となる。その後、『対象のシステム』を発表し、フェルディナン・ド・ソシュール記号論を「貨幣は、一定の諸機能において、それ自身のたんなる記号によって置き換えることができる」といったマルクスの価値理論に取り入れた画期的な視点で脚光を浴びる。

1977年、『誘惑論序説――フーコーを忘れよう』を発表。ミッシェル・フーコーの怒りを買う。1986年、ナンテール教授を辞任。

2007年3月6日、パリの自宅で死去。77歳。

大量消費・再生産時代を迎え、商品使用価値としてだけでなく、記号として立ち現れることを説いた。しかし、アラン・ソーカルらによって、数学・科学用語を不適切に使用しているとの批判を受ける(→ソーカル事件参照)。

1990年代には写真家写真評論家としても活躍し、写真評論集として『消滅の技法』などがある。

2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件前から、ワールドトレードセンターのツインタワーについて考察し、クローンディズニーランド湾岸戦争からはサダム・フセインイラクイスラム教テログローバリゼーションアメリカナイゼーションを題材にアメリカや世界自身が持つ問題を積極的に論じた。1992年の『The Illusion of the End』(日本語訳未公刊)では当時のフランシス・フクヤマ歴史の終わりに代表される自由主義への楽観的な見方について批判をしている。

ボードリヤールの哲学は、芸術の分野に影響を与え、1980年代のニューヨークで台頭したシミュレーショニズムの精神的支柱になっており[2]、映画マトリックスのもとにもなった。特に、ウォシャウスキー監督は、ボードリヤールを非常に意識しており、主演のキアヌ・リーブスなどキャスト、クルーのほとんどは『シミュラークルとシミュレーション』を読まされ、台本にもボードリヤールの名前が頻繁に出ている。映画の中でも、『シミュラークルとシミュレーション』が登場するシーンがある。2作目の制作に入る前に、監督はボードリヤール本人に助言を求めたが、ボードリヤール自身は拒否したという。
日本との関係

今村仁司らにより日本語訳も多く出され、日本ではとくにニューアカブームの1980年代に人気の思想家だった。堤清二はボードリヤールの著作『消費社会の神話と構造』などに触発されて1980年に無印良品を始めた[3]。1981年に来日し、シンポジウム「ボードリヤール・フォーラム東京81 象徴交換とシミュレーションの時代」を当時若者・消費文化を牽引していた西武百貨店で開催し、広く注目された。阪神・淡路大震災の直後に来日し、「(日本)国家がこれだけ豊かになったのは、市民がそれだけ貧しい状態に置かれていたにすぎなかったからだ」と感想を述べ[4]、富の蓄積はあっても国内での富の再配分に問題があるのではないかと指摘した。1997年にはパルコギャラリーで写真展開催。2003年の来日では、早稲田大学で「暴力とグローバリゼーション」を講演、会場の大隈小講堂を超満員にするほど大学生にも人気があった[5]
著書
単著

『物の体系――記号の消費 (Le systeme des objets)』(1968年)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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