ジャン・フーケ
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ジャン・フーケ
『自画像』(1450年)
ルーヴル美術館パリ
本名Jean Fouquet
誕生日1420年頃
出生地 フランス王国トゥール
死没年1481年頃
死没地 フランス王国トゥール
国籍 フランス
運動・動向ゴシックルネサンス
芸術分野絵画
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ジャン・フーケ(: Jean Fouquet, 1415年 / 1420年頃 - 1478年 / 1481年頃)は、15世紀のフランス人画家[1]板絵装飾写本に優れた作品を残し、肖像ミニアチュール (en:portrait miniature) に革新をもたらした。イタリアに旅し、当時勃興しつつあった初期ルネサンスをフランスに紹介した最初の芸術家である。
生涯

フーケはフランストゥールに生まれた。その生涯についてはほとんど伝わっていないが、1447年以前にイタリアを訪れていたことは確実視されている。これは、フーケがイタリアで、1447年に死去したローマ教皇エウゲニウス4世(在位1431年 - 1447年)の肖像画を描いているためである。しかしながら、フーケが描いた肖像画は残っておらず、現存しているのは模写のみとなっている。後にフランスへと帰郷したフーケは、イタリアで学んだ、初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクの作風と密接に関係していたトスカーナの絵画様式を、15世紀初頭のフランス絵画の叙情的作風に融合させた。このフーケの作風が、フランスの重要な美術の学派を形成していくこととなる。フーケは、フランス王シャルル7世、シャルル7世とルイ11世に使えた廷臣エティエンヌ・シュヴァリエ (en:Etienne Chevalier)、一等書記官ギヨーム・ジュヴネル・デ・ジュルサン (en:Guillaume Jouvenel des Ursins) ら、フランス王宮の上流階級からの依頼で絵画を制作した。晩年にはフランス王ルイ11世の宮廷画家にも任命されている。フーケが宮廷人から依頼されて描いた作品は、イングランドとの百年戦争を通じてフランス人の愛国心をより強固なものにしようと画策した、フランス宮廷の思惑と密接な関係がある[2]
作品ムランの二連祭壇画 』の右翼パネル『聖母子と天使たち』(1452年)
アントワープ王立美術館

フーケは細部にわたる正確な描写力、限られたスペースの小さな作品でも人物の性格を明確に描き分ける能力を持っていた。このことが、フーケが卓越した装飾写本作家であるという、フランス美術史上に確固たる地位をもたらした。パリのフランス国立図書館で開催された「初期フランス派展 (French Primitives )」にフーケの描いた肖像画と祭壇画が出品されている。この展覧会にはヨーロッパ各地から見物人が集まり、これ以降フーケの画家としての重要性が広く知られるようになった。

フーケが描いたもっとも重要な絵画の一つが、1452年の『ムランの二連祭壇画』 と呼ばれる作品である。2枚の板で構成された油彩の二連祭壇画で、現在ベルリンの絵画館が所蔵する左翼には、エティエンヌ・シュヴァリエとその守護聖人ステファノが描かれている。アントワープ王立美術館が所蔵する右翼には、赤一色と青一色に塗り分けられた天使たちに囲まれる、青白い肌をした聖母子が描かれている。17世紀以来、この聖母マリアはシャルル7世の愛妾アニェス・ソレルがモデルであるといわれている[3]。そのほか、ルーヴル美術館にはフーケが油彩で描いたシャルル7世の肖像画、ヴィルツェク伯爵の肖像画、ギヨーム・ジュヴネル・デ・ジュルサンの肖像画、さらにパステルで描かれたモデル未詳の肖像画が所蔵されている。フーケはミニアチュールとして1450年に自画像を描いた。ヤン・ファン・エイクの1433年に描いた『ターバンの男の肖像』が自画像ではないとすれば、現存する西洋美術の絵画で最古の自画像ということになる。

フーケの手による装飾写本やミニアチュールは多数が現存している。シャンティイ城付属のコンデ美術館 (fr:Musee Conde) には、1461年に制作された『エティエンヌ・シュヴァリエの時祷書』 (en:Hours of Etienne Chevalier) 由来のミニアチュール40点が所蔵されている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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