ジャン・トッド
国際自動車連盟9代目会長
任期
2009年10月23日 ? 2021年12月17日
前任者マックス・モズレー
後任者モハメド・ビン・スライエム
個人情報
生誕 (1946-02-25) 1946年2月25日(78歳)
ピアールフォー
ジャン・トッド(Jean Todt 、1946年2月25日 - )は、フランスのカンタル県ピエールフォール出身の自動車技術者、ナビゲーター。国際自動車連盟(FIA)の9代目会長。
プジョーの世界ラリー選手権 (WRC) およびスポーツカー世界選手権 (SWC) チームや、スクーデリア・フェラーリのF1チームで監督を務め、いずれも世界チャンピオンを獲得した。
経歴
ナビゲーターからプジョー監督へ1973年、アルピーヌ・ルノー時代のトッド(右端の人物)
ポーランド系ユダヤ人の家庭に生まれた。父親のミニクーパーSを駆って友人と乗り回したのがモータースポーツキャリアの始まりである。
それから、数々のラリーレースで様々な役どころを演じるようになり、自分の力が向いている方向を見定めて後はドライバーの補佐をするコ・ドライバーに専念し、1972年には日産ワークスチームのコ・ドライバーとしてモンテカルロ・ラリーに出場し、ラウノ・アルトーネンとのコンビで240Zを総合3位に導いている。また、翌1973年はチーム・トヨタ・アンダーソンでオベ・アンダーソンと組んだ。
その後、1981年までプジョーのラリーチームに身を置き、WRCへの参戦を続けた。現シトロエン・レーシング監督のギ・フレクランと組んだ1981年シーズンには、シリーズ2位を獲得している。
コ・ドライバーを引退した後も、チームは運営部門のスタッフとしてトッドがチームにとどまることを望んだため、レース部門のマネージャーに就任し(プジョー・タルボ・スポールの誕生)、1982年からWRCの車体デザイン部門の組織構築を委ねられた。出足は鈍かったが、1984年に投入されたプジョー205T16が1985年になって初のタイトルを獲得すると、翌年も連覇を達成し、トッドによって組織されたデザイン部門から生まれた車体は選手権の支配に成功した。
プジョーはパリ・ダカール・ラリー(4連覇)、ヒルクライムを経てスポーツカー世界選手権へ進出。トッドは監督としてチームを率いて1992年、1993年のル・マン24時間レースを連覇するなどし、ナポレオン、優勝請負人と称されていた。この頃からトッドはF1での仕事を望んでおり、プジョー・905の開発をしていたエンリケ・スカラブローニに対して密かにプジョーF1マシンの先行開発プロジェクトを託していた。しかしグループPSAの幹部がこのF1計画に必要なリソースをトッドに与えない決断をしたため、トッドはプジョーから離れることを考え始める。PSAのこの決定を知るとスカラブローニはプジョーを離れ、1993年に生沢徹が構想を発表した「Team Ikuzawa」F1プロジェクトへと移籍して行った。 フェラーリの社長であるルカ・ディ・モンテゼーモロは、1991年からタイトル争いにも加われず、おまけに1勝もできずに低迷していたスクーデリア・フェラーリの復活のため、チームマネージメントからの改革を必要と考えた。 モンテゼモーロは他カテゴリーではあるが、実績を残しているトッドの仕事ぶりを高く評価し、チームマネージャー(監督)へ招聘した。トッドもF1で働きたい意欲があったのでオファーを受けたが、長期的な計画でチームの復活を図る必要を訴え、当時としては異例の5年契約で加入した。 1993年フランスGPから現場に合流したトッドは、チームリソースの現状を分析しながら、内部改革や必要な人材確保を徐々に実行し始める。1994年ドイツGPでゲルハルト・ベルガーが、1995年カナダGPでジャン・アレジがそれぞれ優勝したが、その一方でチーム復活に向け、当時唯一の現役ワールドチャンピオンであったベネトンのミハエル・シューマッハと交渉を始め、ドライバーラインナップの一新を図っていた。 そして1996年からシューマッハと、No.2ドライバーとしてジョーダンからエディ・アーバインを加入させた。
フェラーリへ転籍