映画監督については「ジャン・ジロー (映画監督)」をご覧ください。
ジャン・ジロー(メビウス)
Jean Giraud(M?bius)
本名ジャン・アンリ・ガストン・ジロー
生誕 (1938-05-08) 1938年5月8日
フランス、ノジャン=シュル=マルヌ
死没 (2012-03-10) 2012年3月10日(73歳没)
フランス、パリ
職業漫画家、イラストレーター
ジャンル西部劇(ジャン・ジロー)
SF、ファンタジー(メビウス)
代表作『ブルーベリー
ジャン・アンリ・ガストン・ジロー(Jean Henri Gaston Giraud、1938年5月8日 - 2012年3月10日)は、メビウス(M?bius)のペンネームでも知られるフランスの漫画家(バンドデシネ作家)。40年にわたって続けられた西部劇漫画『ブルーベリー(英語版)』シリーズでは「ジャン・ジロー」(ジル)を、より自由な筆致でSF・ファンタジー作品を手がける際には「メビウス」を用いた。特に後者の活動で国際的な名声を得ており、エルジェ以降もっとも重要なバンドデシネ作家とも言われている[1]。大友克洋、宮崎駿、谷口ジローなどへの直接的な影響を通じて日本の漫画界へも多大な影響を与えた。『エイリアン』をはじめとして、多数のSF映画にもデザイナーとして関わっている。 1938年、パリ郊外のノジャン=シュル=マルヌで生まれる。3歳のときに両親が離婚し、以来フォントネー=スー=ボワの母親の家と祖父母の家を行き来しながら育った[2]。最初の絵画体験は祖父母の家で見た絵入り雑誌『世界一周』の挿絵であり、インタビューではそのなかでも特にギュスターヴ・ドレの名を挙げている[2]。少年時代にはエルジェ、ペロ
経歴
若齢期
公立学校卒業したジローは、16歳のときに通信制の美術講座エコール・アーベーセーに登録し、その後パリ装飾美術学校に入学、タピスリー科に入る[2][注釈 3]。在学中の1956年、『ファー・ウェスト』誌に「フランクとジェレミー」が掲載され、以後1958年にかけて『シッティング・ブル』誌、『フリプネとマリゼット』誌、『クール・ヴァイヤン』誌などにウェスタンもの・ユーモアものの作品を発表した。当時のジローのスタイルはその後に弟子入りするジジェ(フランス語版)の作風に強く影響されたものであった[10]。17歳のころ、学校を休学したジローは、再婚してメキシコに移住していた母親をたずねて同地を訪れ、ここで8ヶ月間をすごした。19世紀の西部劇の世界がまだ残っていたメキシコ滞在の経験は、ジローの西部劇への興味を強めるとともに、のちの「メビウス」としての作品にも様々な面で影響を及ぼしており、彼の自己形成に重要な意味を持つことになった[2][11]。またメキシコではのちの作家活動において影響を受けることになるアメリカの漫画雑誌『マッド』をはじめて目にしている。
帰国後の1958年、装飾学校での同窓生であったジャン=クロード・メジエールとともに、当時スター作家であったジジェのもとを訪れる。その後兵役について2年半のあいだドイツとアルジェリアに滞在[2]。在軍中に軍事雑誌『5/5 Forces Francaises』の製作に協力する[12]。帰国後の1961年、再びジジェを訪れて彼のアシスタントとなり、ジジェの西部劇作品『ジェリー・スプリング』(『ピロット(フランス語版)』誌)の1エピソード「コロナド街道」のペン入れを1年ほどのあいだ担当した[13]。ジジェのもとでは絵の技術にとどまらず、絵に向き合う描き手としての姿勢といった根本的な部分についても多くを学んだという[14][注釈 4]。 ジジェのアシスタントを務めた後、ジローはアシェット社の事典『文明の歴史』の挿絵をメジエールとともに手がけていたが、しだいに漫画を描きたいという気持ちが高まり、過激な風刺雑誌として知られていた『アラキリ
初期「メビウス」と『ブルーベリー』
1965年に第一巻『ナヴァホ砦』が刊行された『ブルーベリー』シリーズは、すでに雑誌掲載中から人気を博しており、やがてバンドデシネのウェスタンものを代表する作品のひとつとなっていった[19]。このシリーズは南北戦争直後を時代背景として、複雑な過去をもつ北軍の中尉ブルーベリーの様々な冒険を描いてゆくもので、「メビウス」のそれとは違い伝統的なコミックの技法に則って描かれている[18][20]。