ジャン・ジロドゥ
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ジロドゥ、1927年

ジャン・ジロドゥ(Jean Giraudoux、1882年10月29日 - 1944年1月31日)は、フランスの外交官・劇作家・小説家。オート=ヴィエンヌ県の小都邑ベラック生まれ。ナチス占領末期のパリで死去。
目次

1 経歴

2 作品

2.1 小説

2.2 随筆・評論

2.3 戯曲

2.4 シナリオ


3 戯曲の日本初演

4 翻訳書

5 参考図書

6 外部リンク

経歴

1882年、土木監督の父レジェ(Leger)と母アンヌ・ラコスト(Anne Lacoste)との間に生まれ、父の転勤にしたがう。

1887年アンドル県ペルヴォアザン(Pellevoisin)の小学校へ入る。

1893年アンドル県シャトールーリセ(現在のリセ・ジャン・ジロドゥ・シャトールー( ⇒Lycee Jean Giraudoux Chateauroux))に進む。戯曲作りをこころみる。

1898年、シャルル=ルイ・フィリップ(Charles-Louis Philippe)とエドモン・ロスタンとから、励ましの返書をもらう。

1900年パリのリセ・ラカナル(Lycee Lakanal)に、給費生として移る。1901年、リセを卒業して兵役につき、1903年除隊後、パリ高等師範学校に進む。ドイツ語の優等賞を受け、1905年首席で卒業、給費生としてミュンヘンに留学し、ついで東欧・南欧に遊ぶ。

1906年ハーヴァード大学のフランス語教師として渡米し、1907年帰国し、ル・マタン(フランス語版、英語版)紙の文芸担当記者に就職する。小説を書き進める。

1909年、小説集『田舎の人々』を出版。売れ行きはよくなかったが、アンドレ・ジッドの目にとまる。

1910年、外務省政治経済局副領事見習生となり、かたわら小説を発表し、注目され始める。

1914年、第一次世界大戦に出征して負傷、入院する。1915年ダーダネルスで諜報活動にしたがい、ふたたび負傷、パリに戻る。レジオン・ド=ヌール勲章五等を受ける。1916年、教導士官としてポルトガルへ、ついでアメリカへ派遣される。

1918年、大戦終結、結婚。

1919年、外務省に復帰する。長男誕生。1920年、フランス海外事業局(Service des ?uvres Francaises Etrangere)に入り、翌1921年、局長となる。1922年、小説『ジークフリートとリムーザン人』を出版し、バルザック賞を受ける。

1924年、駐独大使館秘書官としてベルリンに赴任。短期間で戻り新聞情報局長となる。1926年 - 1933年、連合国損害評価委員会(Commission d'evaluation des dommages)委員を勤める。

1927年、演出家・俳優のルイ・ジューヴェを知る。ジューヴェは当時、シャンゼリゼ劇場内のコメディ・デ・シャンゼリゼに一座を構えていた。ジロドゥは、ジューヴェに励まされながら、『ジークフリートとリムーザン人』をもとに台本を練り、1928年5月3日、初戯曲『ジークフリード』の初演に漕ぎつけた。成功であった。「この芝居はジューヴェと一座の人々とが作り上げた。台本は無署名がふさわしい」とジロドゥは記した。

以降ジロドゥは、次々と戯曲を書き、殆どをジューヴェ一座が上演し、さながら同座の座付作者であった。殆どが好評であった。台本にト書きが少ないのは、一座の意見を入れては訂正を重ねたためという。ギリシア神話旧約聖書などを下敷きにした反リアリズムの、新鮮な作風であった。


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