ジャンルイジ・ブッフォン
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ジャンルイジ・ブッフォン

ユヴェントスFC時代のブッフォン (2016年)
名前
愛称Superman, Gigi, Supergigi
ラテン文字Gianluigi Buffon
基本情報
国籍 イタリア
生年月日 (1978-01-28) 1978年1月28日(46歳)
出身地カッラーラ
身長192cm[1]
体重91kg[1]
選手情報
ポジションGK
利き足右足
ユース
1991-1995 パルマ
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1995-2001 パルマ 168 (0)
2001-2018 ユヴェントス 509 (0)
2018-2019 パリ・サンジェルマン 17 (0)
2019-2021 ユヴェントス 17 (0)
2021-2023 パルマ 43 (0)
代表歴
1993-1994 イタリア U-163 (0)
1995 イタリア U-173 (0)
1994-1995 イタリア U-183 (0)
1995-1997 イタリア U-2111 (0)
1997 イタリア U-234 (0)
1997-2018[2] イタリア176 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2023年8月2日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ジャンルイジ・ブッフォン(Gianluigi Buffon、1978年1月28日 - )は、イタリアカッラーラ出身の元サッカー選手。元イタリア代表。ポジションはゴールキーパー
経歴
パルマAC

1991年にパルマACのエルメス・フルゴーニGK育成コーチ兼スカウトに見いだされ、同チームの下部組織に加入した[3]

1995-96シーズンでは、下部組織加入からわずか4年でネヴィオ・スカラ監督によって、パルマのトップチームに昇格。その時まだ17歳だった。1995年11月19日、ファビオ・カペッロ監督率いるACミラン戦でセリエAデビュー(17歳9ヶ月)。その試合でこの年のバロンドールを受賞するジョージ・ウェアの至近距離からのシュートを顔面でセーブするなどスーパーセーブを連発し、0-0の引き分けに貢献した。このシーズンは9試合に出場した。

1996-97シーズンでは、正GKとしての地位を確固たる物とし、ステーファノ・トッリージ(英語版)、リリアン・テュラムファビオ・カンナヴァーロと共に強固な守備陣を形成。チームはセリエA2位につけた。

1998-99シーズンでは、堅守を武器にチームはコッパ・イタリア優勝、UEFAカップ優勝、イタリア・スーパーカップ優勝を達成した。

2000-01シーズンでは、このシーズンにおいて自身初となるセリエA全試合出場を果たした。
ユヴェントス

2001年7月2日、GKとしては当時の史上最高額の移籍金となる5230万ユーロでマルチェロ・リッピ監督率いるユヴェントスFCに加入。当初はGKにこれほど多額の移籍金を支払ったユヴェントスに懐疑的な見方をする専門家が多かったが、「サッカーをよく理解していない者の戯言」とブッフォンは反論し、その年のスクデット獲得に貢献をした。

2002-03シーズンでは、セリエA連覇を達成。UEFAチャンピオンズリーグでは、準決勝2ndレグのレアル・マドリード戦でルイス・フィーゴPKを止めるなど活躍し、決勝進出した。しかし、オールド・トラッフォードで行われたミランとの決勝戦でPK戦の末に敗れて準優勝に終わった。なお、このシーズンはUEFAチャンピオンズリーグのMVP(GKとしては史上唯一)と最優秀GKに選出された。

2004年3月にFIFAが100周年を迎えるにあたって、元ブラジル代表ペレが選出したFIFA100(偉大なサッカー選手125人)に選出された。

2005-06シーズンでは、8月14日に行われたミランとの親善試合でカカと激突し、右肩を脱臼。長期の戦線離脱を余儀なくされ、ユヴェントスはその代役としてクリスティアン・アッビアーティをミランから獲得。一旦、同年12月1日のコッパ・イタリア、ACFフィオレンティーナ戦で復帰するが、カペッロ監督のまだ十分に回復していないとの判断により、その後の試合には出場せず。1月15日のレッジーナ・カルチョ戦で再度復帰。以降は正GKの座を奪還した。

2006年6月-7月に、カルチョ・スキャンダルでイタリアサッカー界が揺れる中、ブッフォン自身にも違法なサッカー賭博に関与したのではないかとの容疑が掛かり、パルマ地検とトリノ地検から事情聴取を受ける(後に無実であることが判明)。セリエBでプレーするブッフォン(2006年)

2006年8月、所属チームであるユヴェントスの八百長行為によりチームがセリエBへ降格することが決定し、カンナヴァーロやジャンルカ・ザンブロッタなど多くのチームメイトが移籍していく中、アレッサンドロ・デル・ピエロパベル・ネドベドらと同じくユヴェントスに残留する意向であることを代理人を通じてラジオで発表した。

2006年11月、2006 FIFAワールドカップでの活躍によりバロンドール受賞が噂されたが、投票の結果2位に終わり、イタリア代表のチームメイトであるカンナヴァーロにその栄誉を譲った。

2006-07シーズンでは、チーム最多となる38試合に出場し、ユヴェントスをセリエB優勝に導いた。シーズン中からUEFAチャンピオンズリーグ出場のため、他チームへ移籍するのではないかと噂されたが、シーズン終了後にユヴェントスとの契約を2012年まで延長した[4]

2007-08シーズンでは、2008年3月14日にユヴェントスとの契約を2013年まで延長した。

2009-10シーズンでは、シーズン開幕から好調を維持していたが、2009年12月12日に左半月板の手術を行った。

2010-11シーズン2010 FIFAワールドカップのイタリア代表メンバー23人に選ばれたが、連覇を狙ったこの大会でグループリーグ初戦のパラグアイ戦で負傷退場。その後、椎間板ヘルニアのため手術を受けた。11月に練習に復帰し、12月にはベンチ入りも果たしたが暫くはマルコ・ストラーリの控えとして過ごした。2011年1月14日のコッパ・イタリア5回戦のカルチョ・カターニア戦で実戦復帰。その後1月16日のASバーリ戦でリーグ戦初出場を果たした。このシーズンは、本来のプレーには程遠く移籍後最少の16試合の出場に留まり、チームも7位に沈んでUEFAチャンピオンズリーグはおろかUEFAヨーロッパリーグの出場権すら獲得できなかった。ユヴェントスでキャプテンを務めるブッフォン(2014年)


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