この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "ジャンプ放送局"
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2010年10月)
「ジャンプ放送局」(ジャンプほうそうきょく)は、1982年10月から1995年12月まで集英社の少年向け漫画雑誌『週刊少年ジャンプ』において連載された読者投稿コーナー。略称はJBS(Jump Broadcasting Station)。 コーナー全体を放送局(JBSという略称と開始当時のロゴがTBSのパロディ)、個別のコーナーをテレビ番組に見立て、テレビ番組や芸能、友人に関すること、スポーツ、ゲーム、ジャンプ連載の漫画など、多岐にわたるテーマで投稿ハガキを募集し、構成担当(放送局長)のさくまあきらによって選ばれたハガキが誌面に掲載されるという形式を取っている。コンセプトは「マンガが描けなくてもハガキ1枚でジャンプに載れる」[1]。開始当初は土居孝幸によって描かれたオリジナルキャラクターの局員達が誌面をにぎわせていた[注釈 1]が、程なく実在のスタッフたちが局員として誌面に露出するようになった。 当時の漫画誌の投稿コーナーには無かった「半年を1レースとし、掲載されるごとにコーナーに応じて得点が加算され、1レースを通じての総合得点を競う」というルールが採用され、レースで競い合うことなどから、投稿者を「投稿戦士」と呼称している。当コーナーの開始以降、他誌の投稿コーナーにおいても同様の形式が多数見受けられるようになり、フォーマットの一つとして定着している。 ハガキ1枚の採用につき、そのコーナーの掲載得点分のJBS缶バッジ[注釈 2](約30種類でランダムに選ばれる)と、リーフレットの「JBS新聞」が送られた。また、優勝者には豪華賞品と週刊少年ジャンプ編集部への招待(同時に取材を行い、その模様が冒頭2ページに独占掲載された)、最も高得点を獲得した新規投稿者には新人賞(過去に1枚でも採用された者がペンネームを変えた場合は対象外)、ランキングベスト10に入った投稿者には単行本1ページ(1期6代目までは3分の1ページ)を自己PR等に使用できる権利が与えられた。 ジャンプでは、読者コーナーも他の連載漫画作品と同じく雑誌付属のハガキによる読者人気アンケート調査の対象とされている。その中で厳しいランキング競争を勝ち抜き、13年2ヶ月(3期計27レース)の長期にわたり連載が続けられた。一方、他のジャンプ掲載の漫画はジャンプ放送局のアンケート順位を上回れるかが連載継続の1つの目安とされていた。このことについて、さくまは「投稿コーナーより人気の無い作品はまずい」「数々の連載が打ち切りに追い込まれて申し訳ないと思っている」と語っている。 また、ジャンプの他の漫画作品と同じくジャンプ・コミックスから単行本が刊行された(以下、巻数のことを「VTR○(○は数字)」と表記する)。VTR15では読者からの投稿ハガキを集めた単行本として巻数の新記録を樹立[2]、最終的に全24巻におよび、漫画雑誌の巻末投稿コーナーとして1つの金字塔を打ち立てた。 連載が長期にわたる中で、さくまが眼精疲労、頚椎椎間板ヘルニア等により体調を崩してしまい、毎週送られてくる約4万通の膨大な投稿ハガキに目を通し続けるのは厳しいという判断から、1995年12月にJBSは終了し、13年3か月の歴史に幕を降ろした。なお、コミックスの発売時期などから誤解されがちであるが、さくまが脳内出血で倒れたのはJBS終了後、『チョコバナナ』の編集長を務めていた時のことである。また、JBS終了の告知は本誌より先にJBS新聞で発表されていた[注釈 3]。 2010年8月30日に、ニコニコ動画で連載当時のスタッフが集結して『帰ってきたジャンプ放送局』が放送され、同年11月27日には第2回が放送された(後述)。
概要
主なスタッフ
さくまあきら(放送局長:構成担当)
JBS開始当初から構成を担当。連載途中からイラストの頭の上にリンゴのヘタと葉っぱが描かれるようになった。熱狂的な横浜ベイスターズ(旧・横浜大洋ホエールズ)ファンとして知られる。元々は『月刊OUT』で読者コーナーの構成をするなど、ライターとして活動していた。現在は桃太郎シリーズ(『桃太郎伝説シリーズ』『桃太郎電鉄シリーズ』など)のゲーム監督・ゲームデザイナーとしての顔が一般に知られている。