ジャンバッティスタ・ヴィーコ(Giambattista Vico, 1668年6月23日?1744年1月23日)は、イタリアの哲学者。 ナポリの貧しい本屋に生まれた。幼少から利発であったらしく貧しいながら初等教育の学校に通わせられている。7歳の時に階段から転落して頭蓋骨を損傷して、陽気であったのが憂鬱で辛辣な人柄に変わってしまったと『自伝』で述べている。学校にもなじめずほとんど自学自習で済まし、哲学・文学・歴史学・法学・自然学などを学ぶ。18歳の時、侯爵ドメニコ・ロッカの子息の家庭教師として雇われ、ナポリよりさらに南方のチレント半島 ヴィーコは「数学的知識以外の知識はあり得ない」というデカルト派の認識論に反対し、学問に必要なのは認識可能なものと不可能なものを区別する原理であると考えた。その原理とは「真理と事実とは置換できる」、つまり、精神がある対象を理解するためには、その対象が人間精神によってすでに作られていなければならない、ということだった。数学は人間の作り出した仮説であり、歴史は人間の「行為事実」が無から作り出すものであるから、両方とも認識可能な事柄である。こうして歴史は、明確な認識を生みうる学問として数学と並ぶ地位を与えられた。 ヴィーコは歴史を研究するときに次のような仮定を設けた。 ヴィーコは次の5つを、歴史家の陥りやすい誤謬の原因としてあげた。 さらに歴史家が利用できるものとして、言語学・神話・伝説・現代の未開人・子どもや農民の作るおとぎ話などをあげた。ヴィーコは文献を過去のものとして葬らず、文献学と哲学を総合し、歴史研究を科学と同じくらい確実性があるものとした。また、芸術を論理に従属させる考え方に反対し、芸術の構想力が論理より優位にあると主張したため、反合理主義の哲学者とも呼ばれる。 当時としては革命的ともいえるヴィーコの歴史哲学は、生前には反響をもたらさなかった。モンテスキューはヴィーコの著作をもっていたが利用した形跡がなく、ヴィーコと似たような思想家であるドイツのハーマンは1777年に『新しい学』を手に入れているが、その当時は国民経済に関心を持っていたので、失望して手放してしまった。ヘルダーは1797年になって初めて『人道に関する手紙』でヴィーコのために一頁を割いている。
目次
1 生涯
2 反デカルト学説
3 歴史哲学
4 影響・評価
5 著書
5.1 日本語訳
6 参考文献
7 脚注
8 外部リンク
生涯
反デカルト学説
歴史哲学
異なる二つの時代が同一の全般的性質を持ち、そのため一つの時代から他の時代を類推して論じることができる。
同じ種類の時代が、同一順序で再起する傾向がある。英雄時代には必ず古典的時代が続き、新たな未開状態への衰微が始まり、というように時代は循環する。
このような循環運動は、単純にもとのところに戻るのではなく、螺旋を描いて進展する。この点でヴィーコはプラトンやポリュビオス、マキャベリやカンパネッラと異なり、歴史家は未来を予測できないと考える。20世紀の歴史家ではA・J・トインビーがこれに近い歴史観を持つ。
古代に対する大言壮語、理想化と誇張。
国民的自負。
学者が自分の性質を、歴史上の行動者に投影する。
二つの民族が類似の観念や制度を持つときに、一方が他方から学んだに違いない、と考える偏見。
古代人も比較的身近な時代に関しては、現代人より事情に通じていたに違いない、と考える偏見。
影響・評価
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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