この項目では、ブランドの創業者について説明しています。企業およびブランドについては「ヴェルサーチ」をご覧ください。
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ジャンニ・ヴェルサーチ
Gianni Versace
ジャンニ・ヴェルサーチ(1990年)
生誕Giovanni Maria Versace
(1946-12-02) 1946年12月2日
イタリア、レッジョ・カラブリア
死没1997年7月15日(1997-07-15)(50歳没)
アメリカ合衆国、フロリダ
住居 イタリアミラノ
国籍 イタリア
職業デザイナー
Gianni Versace
(1978?1997)
活動期間1974年-1997年
団体ジャンニ・ヴェルサーチS.p.A.
活動拠点 イタリアミラノ
後任者ドナテラ・ヴェルサーチ
親フランチェスカ・ヴェルサーチ
家族ドナテラ・ヴェルサーチ(妹)
サント・ヴェルサーチ
本名ジョバンニ・マリア・ヴェルサーチ(Giovanni Maria Versace)ことジャンニ・ヴェルサーチ(伊: Gianni Versace, 1946年12月2日 - 1997年7月15日)はイタリアのファッションデザイナー。 ファッションブランドヴェルサーチの創業者。華やかで豪華、芸術的で装飾的なスタイルで知られている。また同時代にイタリア・ミラノを発として世界中のファッションを席巻したジョルジオ・アルマーニ (伊: Giorgio Armani)、ジャンフランコ・フェッレ (伊: Gianfranco Ferre) らと合わせて「ミラノの3G」とも呼ばれた。特にジョルジョ・アルマーニとは、正反対の作風と、ファッション界に大きな影響力を持つ者同士として、ライバルと目され、一時期はお互いに同日・同時刻にコレクションをぶつける事まであった。90年代のスーパーモデルブームの火付け役としても時代の大きな流れを牽引した。 舞台衣装のデザイナーとしても活躍し、友人であったエリック・クラプトンやダイアナ元妃、ナオミ・キャンベル、デュラン・デュラン、マドンナ、プリンス、エルトン・ジョン、シェール、スティングなど様々な著名人のための衣装デザインも行った。音楽業界、特にポピュラーミュージックとの積極的な協業を行った最初のデザイナーの一人とも評される[1]。多くの著名人の友人であると共に、ジャンニとそのパートナーアントニオ・ダミコ
概要
ジャンニ・ヴェルサーチはまた、その悲劇的かつセンセーショナルな最期でもよく知られている。1997年7月15日に、フロリダにあった自身の別荘前で突如銃撃され、50歳で亡くなった[3][4][5]。犯人は連続殺人犯で、ジャンニがその最後の犠牲者であった。 ジャンニ・ヴェルサーチこと、ジョバンニ・マリア・ヴェルサーチは1946年の12月2日にイタリア、レッジョ・カラブリアに生まれ、そこで父とドレスメーカーの母フランチェスカ、そして兄のサント・ヴェルサーチと妹のドナテラ・ヴェルサーチと共に育った[6]。彼には一人ティナという姉が居たが、破傷風が適切に治療されなかったことで12歳の時に亡くなっている[7]。 ジャンニは、歴史的な遺構が数多く残るレッジョ・カラブリアに育ったこともあり、古代ギリシャ文明の影響を大きく受けた。レッジョ・カラブリアの高等学校 Liceo Classico Tommaso Campanelladでは、教科コースを完了してはいないが、古代ギリシャと古代ローマについて学んだ。また、アンディ・ウォーホルにも影響を受けた[8]。ジャンニの母は12人ほどのお針子を雇う縫製業を営んでおり[6]、彼も幼いころからそこに出入りしていた。26歳でミラノに移住してファッション産業で働き始める以前には、建築についても学んでいた。 1973年、ジャンニはイタリアの既製服メーカー”Genny”の若者向けラインByblosのデザイナーに就任し、成功を収める。続いて1977年には同じく”Genny”のより実験的なラインCompliceのデザイナーとなった[9]。1978年、そうした成功を元にして、自身の名を冠したレーベルから最初の女性向けコレクションをミラノのPalazzo della Permanenteにて発表[10]。彼の最初のコレクションは、同じ年の9月に再度披露された。また、同じ1978年に最初の店舗をミラノのVia della Spigaにオープンした[11]。 1978年に最初の店舗を開いて後、ジャンニは即座にファッションシーンに国際的なセンセーションを巻き起こした。ジャンニのデザインは鮮やかな色彩と、大胆なプリント、セクシーなカッティングにより、それまでの控えめな色彩とシンプルな形によるファッションシーンを一新した。同時に、彼の作品の「クラシックな豪華さと、過剰なまでのセクシーさの組み合わせ」は数多くの賞とともに、様々な批判も彼にもたらした[12]。ジャンニの創作姿勢は「ファッションのルールに果敢に挑戦するもの」と評された[12]。また、ジャンニのライバルと目されたジョルジョ・アルマーニのスタイルと比較して「アルマーニの服は妻のために、ヴェルサーチの服は愛人に」とも表現された[13]。 1978年、ジャンニは、家族の協力をもとに自身の会社を立ち上げた。彼の兄サントが社長に、妹のドナテラが副社長となった[14]。ドナテラは特に、創作面におけるジャンニの視野を更に広げる役割を担い、さしずめ会社にとって重要なコンサルタントの様なものだった。それに、ジャンニはドナテラの夫であり、元モデルのポール・ベックをメンズウェアのディレクターとして雇い入れた[15]。 ジャンニによるファッションの革新の一つとして著名なものに、1982年の非常に軽量のチェーンメイルを用いた”Oroton”と名付けられたドレスがある。この素材はデザイナーを代表する素材の一つとして認知されるにいたった。また、ジャンニの手がけるスーツは、彼自身が経験してきた女性服のテーラリングの経験が強く反映されており、イギリスのサヴィル・ロウに始まる男性をより男性性的にみせるスタイルとは、一線を画するものだった[12]。ジャンニは自身のアイデンティティでもあり、古代ギリシャ・ローマなど様々な影響を受けた南イタリアのことを、イタリアにおける南北問題を別として、誇りとしていた[15]。そうしたことは、彼のデザインにおけるモチーフの中にも反映されているとされ、ブランドのロゴであるメデューサの頭、ギリシア雷文などが挙げられる。
生涯
前半生
ファッション帝国