ジャマイカの歴史
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ジャマイカの位置

ジャマイカの歴史(ジャマイカのれきし)では、カリブ海に浮かぶ立憲君主制国家島国ジャマイカの先史時代から現代までの歴史を扱う。
先コロンブス期

南アメリカ(現在のオリノコ川流域)からカヌーで移住してきたタイノ族/アラワク族は、11世紀頃までにはジャマイカに定住し、漁労、採集を営みながら生活した。一説には、「ジャマイカ」という単語は、「森と水の国」という意味を持つタイノ語の「Xaymaca」(ザイマカ)から来ているともされている。
スペイン植民地時代「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照 ジャマイカの「発見」者、クリストーバル・コロン

1494年5月4日スペインの探検家クリストーバル・コロンが2度目の航海でハマイカ(スペイン語でJamaica)に上陸。1503年、コロンブスは4度目の航海で再びジャマイカに上陸し、船の修理を行う間の1年間をオーチョ・リオス近郊で過ごした。その後ジャマイカは1509年スペイン人コンキスタドール(征服者)フアン・デ・エスキベルによって征服され、島をハマイカからサンティアゴに改名した。20世紀末のジャマイカの地図 コロンブスが上陸したのは島の中央北岸にある St.Ann's Bay だと考えられている

スペインの司教バルトロメ・デ・ラス・カサスは、スペインの征服者によって先住民が酷い扱いを受けていたことについて『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を書いている。彼は、スペイン人はタイノ族をキリスト教に改宗すべきだと信じていた。結果的には、スペインのジャマイカ征服から50年も経たないうちに、10万人いたタイノ族/アラワク族はスペイン人の持ち込んだ疫病、奴隷制度、および戦争によって絶滅してしまった。1517年、スペインはジャマイカに最初の黒人奴隷を連行した。

1538年に首都がジャマイカ最初の町、セビージャ・ヌエバから、現キングストン近郊のビジャ・デ・ラ・ベガ(現在のスパニッシュ・タウン)に移転した。各地にサトウキビプランテーションが作られ、その労働力として西アフリカから多くの黒人奴隷を連行した。

1640年代までには、ジャマイカには美人がいるという評判も立ち、多くのスペイン人がジャマイカに引き付けられた。その一方で、1555年から1655年の100年間、スペイン領ハマイカ(Jamaicaはスペイン語でハマイカと読まれていた)は多くの海賊による攻撃を受けることがあった。また、ジャマイカでは金などの鉱産物が産出しないことが確認されると、スペイン人は徐々に植民地支配の意欲を失っていった。
イギリス植民地時代「イギリスによるアメリカ大陸の植民地化」も参照

1642年にイングランドピューリタン革命が勃発し、オリヴァー・クロムウェル護国卿に就任してイングランド共和国の実権を握り、オランダとの海上覇権を巡る争いの中で1651年に航海法を制定して重商主義政策を進めていたが、クロムウェルは第一次英蘭戦争に勝利した後に「西方計画」を発令し、スペインから西インド諸島の覇権を奪うためにイスパニョーラ島の攻略に取り掛かった。

しかし、イスパニョーラ島の防備が固かったためにサント・ドミンゴ攻略に失敗したイギリス軍は矛先をハマイカに変更し、1655年5月、イギリス海軍提督ペンアメリカ合衆国ペンシルベニア州を創設したウィリアム・ペンの父)とベナブルズ将軍が侵攻、この島を実効支配した。1657年に海賊とスペイン軍の攻撃からの防御のため、ポート・ロイヤルに首都が移転された。1650年にアイルランドを征服し、植民地化していたクロムウェルはアイルランド人年季奉公人をジャマイカやバルバドスに送り込んだため、現在もジャマイカの地名や人名にはアイルランドの影響が見られる。

1657年と1658年には、キューバから航行したスペイン軍が島を取り返そうと侵攻するが、オーチョ・リオスとリオ・ヌエボの戦いで敗れた。イギリスは、1661年に完全な植民地化を始めて、1670年マドリード条約を通して正式にスペインから獲得した。1692年には都市が形成されつつあった当時のジャマイカの首都ボート・ロイヤルに大地震が起こり、首都は壊滅状態となった。このため、イギリスはスペイン領時代の首都、ビジャ・デ・ラ・ベガをスパニッシュ・タウンに改名し、首都として再建した。
18世紀

スペイン領時代から過酷な労働を強いられた黒人たちはプランテーションを逃げ出し、中央部の山脈に籠って、山中に集落を形成し、指導者の下で自給自足の生活を営みながら、奴隷解放を目指して活動を始めた。マルーン (Maroon) と呼ばれるこの逃亡奴隷たちは自由を求めてイギリス植民地政府に対する反乱を繰り返した。

マルーン蜂起の最大のものは18世紀初頭、クジョ (Cujoe/Cudjou) に率いられた第1次マルーン戦争 (First Maroon War) である。マルーンは土地勘のないイギリス軍をゲリラ戦で苦しめ、戦争は1739年の停戦合意で終結するが、この時マルーンは完全な自由と600ヘクタールの土地を得ることとなった。


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