この項目では、ヨーロッパで見られた日本趣味のことについて説明しています。嵐のアルバムについては「Japonism」をご覧ください。
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クロード・モネ作『ラ・ジャポネーズ』。
ジャポニスム(仏: Japonisme
)は、19世紀後半にヨーロッパで流行した日本趣味のこと。英語ではジャポニズム(英: Japonism)と表記するが、本稿では仏語の「ジャポニスム」に表記を統一する。19世紀中頃の万国博覧会(国際博覧会)への出品などをきっかけに、日本美術(浮世絵、琳派、工芸品など)が注目され、ヨーロッパの芸術家に大きな影響を与えた。1870年には、フランス美術界においてジャポニスムの影響はすでに顕著であり[1]、1872年に美術評論家のフィリップ・ビュルティがその流行を「ジャポニスム」と呼んで解説[2]、1876年にはjaponismeという単語がフランスの辞書に登場した[3]。19世紀末から20世紀初頭にかけての日本ブームについて、フランスの翻訳家ルイ・ファビュレ
は、「日本は巨人のような大股で世界に登場し、今日世界中の眼がこの国に注がれている」と記している[4]。ジャポニスムは画家を初めとした芸術家に多大な影響を与えた。たとえば、ゴッホによる『名所江戸百景』の模写や、クロード・モネの「ラ・ジャポネーズ」、ドガを初めとした画家の色彩感覚にも影響を与えた。
なお現在も製造、販売されているフランスのかばんメーカーのルイ・ヴィトンの「ダミエ」キャンバスや「モノグラム」キャンバスも、当時のゴシック趣味、アール・ヌーヴォーの影響のほか、市松模様や家紋の影響もかかわっているとされる。
歴史
ジャポネズリーの時代フランスの画家ジェームズ・ティソ(1836 - 1902)による1869 ? 1870年の作品。屏風を眺める婦人が描かれている。
ジャポネズリー(仏: Japonaiserie)とは日本趣味のことであり、ジャポニスムの前段階として解釈されている。
嘉永年間、黒船来航により多くの商船が西洋から押し寄せた。当時の写真技術と印刷技術により、日本の様子が西洋に広く知られるようになる。他の美術工芸品とともに浮世絵という版画が欧米でまたたく間に人気になった。
ジャポニスムの第一段階は日本の美術品、特に浮世絵版画の熱狂的な収集から始まる。その最初の例はフランスのパリであった。1856年ごろ、フランスのエッチング画家フェリックス・ブラックモンが、摺師の仕事場で『北斎漫画』を目にした[注 1]。1860年から1861年にかけて出版された日本についての本の中では、浮世絵がモノクロで紹介されている。
シャルル・ボードレールは、1861年に手紙を書いている。「かなり前になりますが、私は1箱の日本の工芸品を受け取り、それらを友人たちと分け合いました…」
その翌年にはラ・ポルト・シノワーズ(「中国の門」、La Porte Chinoise)という浮世絵を含むいろいろな日本製品を売る店がリヴォリ通りというパリで最もおしゃれな商店街に開店した。
1871年には、カミーユ・サン=サーンスが作曲し、ルイ・ガレが台本を書いたオペラ『黄色い王女』(La Princesse jaune)が公開されたが、その物語はオランダ人の少女が芸術家のボーイフレンドが熱中している浮世絵に嫉妬するというものだった。
ブラックモンによる浮世絵の古典的名作の最初の発見にもかかわらず、当初ヨーロッパに輸入された大半の浮世絵は、同時代である1860-1870年代の絵師によるものだった。それ以前の巨匠たちが紹介され、評価されるのはもう少しあとのことになる。また、同時期のアメリカのインテリたちは、雪舟や周文などのような日本の洗練された宗教的、国家的遺産とは区別されるべきものだと主張した。 イギリスでは、1862年のロンドン万国博覧会により日本の陶器や置物など日本文化への関心が高まった。美術界では、ロセッティ・サークル(画家のロセッティを中心としたラファエル前派のグループ)の人々を中心に日本熱が起こった[5]。明治になると日本の軽業師が多数海外で興行するようになり、イギリスでも1870年代にはすでに手品や曲芸を見せる興行が打たれていた。1873年のウィーン万国博覧会後、そこで展示されていた建物と庭園がアレクサンドラ・パレス&パーク (Alexandra Palace and Park
イギリスにおけるジャポニスム
ジャポネズリーからジャポニスムへマネ『エミール・ゾラの肖像』 1866年。ゴッホ『タンギー爺さん』(1887 ? 1888年) 後ろに浮世絵が描かれている。ゴッホ『花魁』 1887年。
エドゥアール・マネの『エミール・ゾラの肖像』は、ジャポネズリーの代表的なものであると考えられる。この作品はマネ自身の日本趣味を表しており『エミール・ゾラの肖像』はマネのアトリエで描かれた作品であり、画中の日本の絵画もマネのコレクションである[8]。この作品そのものには日本の絵画の表現方法が顕著に取込まれているわけではなく、オランダのフィンセント・ファン・ゴッホの『タンギー爺さん』も同様の感覚によるものであるとも考えられる。