ジャパン・ラジオ・ネットワーク
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「JRN」はこの項目へ転送されています。アメリカ合衆国のJones Radio Networksについては「ジョーンズTM」をご覧ください。
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}ラジオネットワーク > 日本のラジオネットワーク > ジャパン・ラジオ・ネットワーク(JRN、TBSラジオ系)

ジャパン・ラジオ・ネットワーク(: Japan Radio Network)は、TBSラジオ基幹局とする日本民間放送ラジオネットワークである[1]。一般的には略称のJRN(ジェイアールエヌ)[注釈 1] が使われる。

1965年5月2日発足[2]。加盟局は34局(内訳は後述)。JRNのキー局:TBSラジオ
発足の背景

前史として、毎日新聞社が資本関係を結んでいた新日本放送(大阪。現在のMBSラジオ)、ラジオ日本(東京。現在のTBSラジオ。現存する同名のアール・エフ・ラジオ日本とは関係がない[注釈 2])、ラジオ九州(福岡。現在のRKB毎日放送)の3社を中心に、RAPPONネットワークと称した全国ネットワーク構想があった[3][4]が、東京・大阪とも競願となった上で、東京はラジオ日本・読売放送(読売新聞社系)・朝日放送(朝日新聞社系)・東京放送(電通系)の4社を統合してラジオ東京として開局、大阪は新日本放送と朝日放送(現在の朝日放送ラジオ)にそれぞれ放送免許を交付する形を取り、RAPPON構想は事実上形骸化したが、大阪の2局が東京支社を構えることによって、「大阪発の全国ネットワーク」を目指す構想も進められていたとされる。このことが、JRN(後に結成されたNRN[注釈 3]も)の大阪地区2局同時加盟の理由にも後付け[3]される。

テレビ放送全盛となった1960年代半ば、民放ラジオ界は危機的状況に追い込まれていた。

こうした中、1959年にテレビのネットワーク構築を成功に収めたラジオ東京(現在のTBSホールディングス)は、次にラインネットを用いたラジオのニュースネットワーク、言い換えればラジオ版JNNを構築すべく準備を進めていた。そして、ニュース番組のみならず、一般のラジオ番組も東京のTBS[注釈 4] で制作し、地方局へ配給。地方局がこれらの番組を販売することで営業力の強化により業績を向上させ、同時にTBSへラジオ番組制作費も回収させようといった、一石二鳥も三鳥も狙った構想を背景にこのネットワークは生まれた。

取り敢えず、1964年に試験的に同じ意志を持った、(というよりも同じ毎日新聞社資本系統の)TBS、毎日放送、RKB毎日放送の3局で、午後枠のワイドショー『オーナー』のラジオでのネットワークを開始して、事実上JRNは幕を開ける。直ちに、山陽放送、東北放送、静岡放送、新潟放送等が反応を示し、JRN正式発足までにこのラジオ番組のネットワークは拡大。手応えを感じたTBSは翌年一気にJRNの正式発足にまで持ち込んでいくのだが、当初同一新聞資本の3局で番組ネットを開始したところに、本来は完全なニュースネットワークを志向していたTBSの「本音」が垣間見える。

文化放送(QR)およびニッポン放送(LF)はこの動きを察知。TBSが自らラジオ番組の配給機構と位置付け、地方局の営業力強化を狙った「理想主義」のJRNを立ち上げたのに対し、キー局がナショナルスポンサーを開拓することに主眼をおいた、ネットワークセールス主体の「現実主義」的な全国ラジオネットワーク(NRN)を旗揚げした。

多くの放送局はこのTBSの掲げる「理想」と文化放送とニッポン放送の掲げる「現実」を両方受け容れ、双方のネットワークに同時加盟することになった。選択肢は多い方が良いと言うことか、「理想」と「現実」といった一見相反する両陣営に同時加盟した局が大半だった事実や、TBSが排他協定を締結したテレビネットワークJNNと異なり、ラジオネットワークのクロス加盟やNRNシングルネット局や独立局との間のラジオ番組の番組購入や番販ネットを容認し[注釈 5]、なおかつTBS自身がNRN単独加盟局や独立局との間でも番組の相互取引を実行したことにこそ、当時の民放ラジオ局が置かれた危機的状況がうかがえる。加えて、UHFテレビ局やFM放送普及前で、ラジオは1県又は複数県で1局の中波局の地域が多い状況も影響を与えた。またMBSとABCはともにQR・LFとも関係が深かったため(後述)、この時にNRNにも同時加盟した。

なお、1979年にTBSが巨人後楽園戦の独占中継権を持っていたラジオ関東からラジオの中継権購入に成功[注釈 6]したことから、発足時点でNRN単独加盟局だった北日本放送、和歌山放送、山口放送の3局は、JRNに追加加盟している。また、発足時点では、隣県放送局との関係から、北陸放送や山陽放送はJRNのみの加盟だったが、深夜放送全盛になると、人気深夜番組(実質的には『オールナイトニッポン』)のネットを確保することを目的にNRNにも加盟した。これと同じ理由で、1997年に瀬戸内地方広域圏の位置づけでNRNのみ加盟だった西日本放送が新たにJRNに加盟した[注釈 5]
近畿広域圏における扱い

大阪府を中心とする近畿広域圏でMBSラジオ(MBS)と朝日放送ラジオ(ABC)の両方が加盟している背景には、両局ともTBSラジオの前身であるラジオ東京の開局以来関係が深かったこと、並びに上記の毎日資本のラジオ局によるネットワーク構想「RAPPON」の計画があげられている。ラジオ東京は、もともと読売新聞系の読売放送朝日新聞系の朝日放送[注釈 7]毎日新聞系のラジオ日本、電通系の東京放送が合併する形で設立されたため、同根とも言えるABCは早期から特定の時間にラジオ東京とラインを結んで同時ネットを行っていた。MBSもまた毎日新聞を背景とした繋がり(ラジオ東京の新聞勢力は毎日が強かった)や、MBSの主要時間を電通が扱っていたことなどから番組の共同制作やネット受けを行っていた。

また、MBSは文化放送(当時は日本文化放送協会)と番組の共同制作を多く行い、ニッポン放送とはFOLスポーツネットワークなどを通じて交流を深めていった。一方のABCもまた文化放送やニッポン放送との交流を深め、ABCの看板番組だった『蝶々・雄二の夫婦善哉』等はニッポン放送で放送されていた。「全国ラジオネットワーク#補足」および「RKB毎日放送#ネットワークと放送エリア」も参照

このため、両局は発足当初からJRN・NRN両方とも加盟している。JRN発足記念番組は2時間のうち前半をMBSが、後半をABCが分け合ってネット受けを行った。

JRN発足時、TBSのテレビネットワークであるJNNには、旧大阪テレビ放送を合併・継承したABCが加盟していたが、1975年の「腸捻転」解消を機にMBSへと変わった。しかし、基幹局であるTBSは、先述の理由でテレビのネットワーク(ネットチェンジ)はラジオと関係ない(ラジオ部門には影響しない)として、今日までABCともラジオのネット関係を続けており、これらの提携維持の観点から、TBSホールディングス朝日放送グループホールディングスは2020年時点でも相互に株式の持ち合いを行っている[5][6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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