ジャパニーズ・メタル
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ジャパニーズ・メタル (Japanese Metal) は、ロック・ミュージックのジャンルの一つで、日本のヘヴィメタルを指す。ジャパメタと略されることもある。「和製ヘヴィメタル」とも呼ばれる。本項では、日本のヘヴィメタルシーンの歴史について記述する。

ジャパニーズ・メタルのミュージシャンのリストは、ジャパニーズ・メタルアーティスト一覧を参照。
歴史
1960年代末

ザ・ゴールデン・カップスは後期になるとディープ・パープルレッド・ツェッペリンなどのハードロックのカバーも演奏した[1]。またジャッキー吉川とブルーコメッツでさえ、スーツを着てマウンテンのカバーをプレイしたという[2]
1970年代

1970年代初期には、PYG[注釈 1]、パワーハウス、ブルース・クリエーションなどのニュー・ロックバンドが活躍した[3]1970年ザ・ハプニングス・フォークニ河内、ザ・フラワーズからフラワー・トラベリン・バンドに移行する前の石間秀樹ジョー山中らは『クニ河内とかれのともだち』名義で、すべて日本語で構成されたアルバム「切狂言」を録音している。井上陽水の編曲を長く担当した星勝鈴木ヒロミツらのザ・モップスは、1970年代にはハードなサウンドも演奏するようになった[4]。モップスは、1972年には「たどりついたらいつも雨降り」をヒットさせた[注釈 2]。またイースト[注釈 3]、つのだひろ[注釈 4]&スペース・バンドはメディアに登場することが実現した。

1970年代の代表的なハードロック・グループとしては、カルメン・マキ&OZ[注釈 5]、クリエーション、BOW WOW、沖縄のコンディション・グリーンがあげられる。他には、Char、プログレ・バンドのコスモス・ファクトリー、四人囃子、ファー・イースト・ファミリー・バンド、ハード・ロックンロールの村八分、外道、金子マリとバックス・バニー等がいた。Charは、のちにジョニー・ルイス・アンド・Charを結成している[5]

井上陽水のアレンジャーをつとめて高評価を得た星勝、ブルースマンの柳ジョージトランザムを経て萩原健一のバックを務めた石間秀機、ロック、レゲエのジョー山中らがいた。

内田裕也のプロデュースによってフラワー・トラベリン・バンドが1970年に結成。モノマネ的なコピー曲が大半で評価が低かった1stアルバム『ANYWHERE』(1970年)発売後、バンドは米アトランティック・レーベルと契約を結び、ハード・ロックの2nd『SATORI』(1971年)等を発表、海外でもライブ・ツアーを行った[6]ミッキーカーチス&サムライは、タイやヨーロッパで活動を行った[7]。が、サムライは1971年に解散した。フラワー・トラベリン・バンド(2008年、再結成後のニューヨーク公演より)

竹田和夫率いるブルース・クリエイションは、「原爆落し」「悪魔と11人の子供達」という曲を1970年にはすでにステージで演奏していた。1971年には2ndアルバム『悪魔と11人の子供達』を発売。同年、カルメン・マキとのコラボ・アルバム『カルメン・マキ/ブルース・クリエイション』を発表するが、このアルバムは当時知名度のあったカルメン・マキのおかげもあって好セールスを記録。その後、ブルース・クリエイションは解散するが、のちにメンバーを一部刷新したクリエイションとして再編され、ブルース・ハード・ロック・バンドとしての道を歩むこととなる。クリームのプロデューサーやマウンテン[注釈 6]のメンバーであったフェリックス・パッパラルディにその実力が認められたことで、1976年には日・東芝EMI/米・A&Mからマウンテン直系のハード・ロック作『CREATION WITH FELIX PAPPALARDI』がリリースされ、全米20か所にも及ぶライヴ・ツアーへと繋がった。フェリックスとクリエーションは、この時期に日本武道館公演も敢行している。

1973年に結成、1977年にデビューしたLAZY(バンド名は、ディープ・パープルの同名曲に由来する)は、当初、事務所の営業方針でアイドル・バンドとして活動をさせられていたが、コンサート会場では海外のバンドのカヴァー(UFOTOTOなど)を演奏し、特に高崎晃のギター・プレイについては、当時現役高校生で、しかもアイドルという立場であったにもかかわらず、この時既にコアなロックファンや同業者に注目を集め、子供バンドうじきつよしは金沢のイベントで過去にLAZYと共演した際にLAZYの演奏技術と音量の大きさに驚き、「実際に見たら嫌になっちゃうくらい音がでかくてね。「高崎は凄いぞ、ヤツは敵だ!」と思った(笑)」とライバル意識を持っていた過去を明かした[8]。後にBURRN!副編集長?ミュージック・ライフ編集長を務めた音楽ライターの増田勇一も学生時代に高崎の演奏技術に衝撃を受けたうちの一人で、当時LAZYが出演したNHKの歌番組『レッツゴーヤング』でマイケル・シェンカー・グループの「Armed and Ready」のカヴァーを演奏した姿を見て衝撃を受けたと述懐している[9]。1981年にデビューしたLOUDNESSがデビューコンサートのチケットが完売するまで、当時の音楽業界での認識は「日本のハードロックは売れない」とまで言われていた程であった[10]。1970年代が終わりに近づくにつれ、高中正義や、竹田和夫等ロック・ミュージシャンの一部は、ジャズ・フュージョン系のサウンドに流れていった。
1980年代前半1980年代を代表する日本のヘヴィメタルバンドLOUDNESS(2010年、ドイツ公演より)

80年代に入ると、ヘヴィメタルが流行を迎える[11]Sighの川嶋未来は、「80年代当時、ヘヴィメタルは確実にメインストリームに属する音楽であった。クラスメイトにもヘヴィメタル好きは複数いた」と当時を振り返っている[11]

1980年、英国でのアイアン・メイデンらを筆頭とするNWOBHMムーヴメントに感化されるようにして、アイドルグループとして活動していたLAZYが「ヘヴィ・メタル宣言」を行い、アルバム「宇宙船地球号」をリリース。


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