この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2023年2月)
ジャパニーズ・メタル (Japanese Metal
) は、ロック・ミュージックのジャンルの一つで、日本のヘヴィメタルを指す。ジャパメタと略されることもある。「和製ヘヴィメタル」とも呼ばれる。本項では、日本のヘヴィメタルシーンの歴史について記述する。ジャパニーズ・メタルのミュージシャンのリストは、ジャパニーズ・メタルアーティスト一覧を参照。 ザ・ゴールデン・カップスは後期になるとディープ・パープル、レッド・ツェッペリンなどのハードロックのカバーも演奏した[1]。またジャッキー吉川とブルーコメッツでさえ、スーツを着てマウンテンのカバーをプレイしたという[2]。 1970年代初期には、PYG[注釈 1]、パワーハウス、ブルース・クリエーションなどのニュー・ロックバンドが活躍した[3]。1970年、ザ・ハプニングス・フォーのクニ河内、ザ・フラワーズからフラワー・トラベリン・バンドに移行する前の石間秀樹、ジョー山中らは『クニ河内とかれのともだち』名義で、すべて日本語で構成されたアルバム「切狂言」を録音している。井上陽水の編曲を長く担当した星勝や鈴木ヒロミツらのザ・モップスは、1970年代にはハードなサウンドも演奏するようになった[4]。モップスは、1972年には「たどりついたらいつも雨降り」をヒットさせた[注釈 2]。またイースト[注釈 3]、つのだひろ[注釈 4]&スペース・バンドはメディアに登場することが実現した。 1970年代の代表的なハードロック・グループとしては、カルメン・マキ&OZ[注釈 5]、クリエーション、BOW WOW、沖縄の紫、コンディション・グリーンがあげられる。他には、Char、プログレ・バンドのコスモス・ファクトリー、四人囃子、ファー・イースト・ファミリー・バンド、ハード・ロックンロールの村八分、外道、金子マリとバックス・バニー等がいた。Charは、のちにジョニー・ルイス・アンド・Charを結成している[5]。 井上陽水のアレンジャーをつとめて高評価を得た星勝、ブルースマンの柳ジョージ、トランザムを経て萩原健一のバックを務めた石間秀機、ロック、レゲエのジョー山中らがいた。 内田裕也のプロデュースによってフラワー・トラベリン・バンドが1970年に結成。モノマネ的なコピー曲が大半で評価が低かった1stアルバム『ANYWHERE』(1970年)発売後、バンドは米アトランティック・レーベルと契約を結び、ハード・ロックの2nd『SATORI』(1971年)等を発表、海外でもライブ・ツアーを行った[6]。ミッキーカーチス&サムライは、タイやヨーロッパで活動を行った[7]。が、サムライは1971年に解散した。フラワー・トラベリン・バンド(2008年、再結成後のニューヨーク公演より) 竹田和夫率いるブルース・クリエイションは、「原爆落し」「悪魔と11人の子供達」という曲を1970年にはすでにステージで演奏していた。1971年には2ndアルバム『悪魔と11人の子供達』を発売。同年、カルメン・マキとのコラボ・アルバム『カルメン・マキ/ブルース・クリエイション』を発表するが、このアルバムは当時知名度のあったカルメン・マキのおかげもあって好セールスを記録。その後、ブルース・クリエイションは解散するが、のちにメンバーを一部刷新したクリエイションとして再編され、ブルース・ハード・ロック・バンドとしての道を歩むこととなる。クリームのプロデューサーやマウンテン[注釈 6]のメンバーであったフェリックス・パッパラルディにその実力が認められたことで、1976年には日・東芝EMI/米・A&Mからマウンテン直系のハード・ロック作『CREATION WITH FELIX PAPPALARDI』がリリースされ、全米20か所にも及ぶライヴ・ツアーへと繋がった。フェリックスとクリエーションは、この時期に日本武道館公演も敢行している。 1973年に結成、1977年にデビューしたLAZY(バンド名は、ディープ・パープルの同名曲に由来する)は、当初、事務所の営業方針でアイドル・バンドとして活動をさせられていたが、コンサート会場では海外のバンドのカヴァー(UFO、TOTOなど)を演奏し、特に高崎晃のギター・プレイについては、当時現役高校生で、しかもアイドルという立場であったにもかかわらず、この時既にコアなロックファンや同業者に注目を集め、子供バンドのうじきつよしは金沢のイベントで過去にLAZYと共演した際にLAZYの演奏技術と音量の大きさに驚き、「実際に見たら嫌になっちゃうくらい音がでかくてね。「高崎は凄いぞ、ヤツは敵だ!」と思った(笑)」とライバル意識を持っていた過去を明かした[8]。後にBURRN!副編集長?ミュージック・ライフ編集長を務めた音楽ライターの増田勇一
歴史
1960年代末
1970年代
1980年代前半1980年代を代表する日本のヘヴィメタルバンドLOUDNESS(2010年、ドイツ公演より)
80年代に入ると、ヘヴィメタルが流行を迎える[11]。Sighの川嶋未来は、「80年代当時、ヘヴィメタルは確実にメインストリームに属する音楽であった。クラスメイトにもヘヴィメタル好きは複数いた」と当時を振り返っている[11]。
1980年、英国でのアイアン・メイデンらを筆頭とするNWOBHMムーヴメントに感化されるようにして、アイドルグループとして活動していたLAZYが「ヘヴィ・メタル宣言」を行い、アルバム「宇宙船地球号」をリリース。