この項目では、1962年から2023年まで「ジャニーズ事務所」だった企業(現・SMILE-UP.)について説明しています。2023年に新設され芸能事務所としての事業を継承した企業については「STARTO ENTERTAINMENT」をご覧ください。
「SMILE-UP.」はこの項目へ転送されています。他のスマイルアップについては「スマイルアップ」をご覧ください。
株式会社ジャニーズ事務所
Johnny & Associates, Inc.
ジャニーズ事務所本社(2023年4月)
種類株式会社
機関設計取締役会設置会社[1]
本社所在地 日本
〒107-0052
東京都港区赤坂9-6-35
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度40分2.3秒 東経139度43分40.5秒 / 北緯35.667306度 東経139.727917度 / 35.667306; 139.727917
株式会社ジャニーズ事務所(ジャニーズじむしょ、英: Johnny & Associates, Inc.)は、かつて東京都港区赤坂に存在した日本の芸能プロダクション[5]。1964年にジャニー喜多川が創業。1975年に株式会社として設立。男性アイドルのプロデュース業などを中心に事業展開していた。
創業者であるジャニー喜多川による性加害問題を受けて2023年10月17日に株式会社SMILE-UP.(スマイルアップ)へと社名を変更した[6]。同日に新たなエージェント会社STARTO ENTERTAINMENT(スタートエンターテイメント)を設立し、所属タレントのマネジメント業務については2024年4月10日をもって同社に移管した[7][8]。現在SMILE-UP.は性加害問題にかかる補償業務に専念しており、補償後に廃業する予定[9]。
歴史
ジャニーズ事務所 設立以前1962年4月に結成されたジャニーズ
アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス出身で日系人のジャニー喜多川がアメリカ西海岸のエンターテインメントの世界に触れる。1952年に喜多川が来日して駐日アメリカ合衆国大使館で通訳として勤務する傍ら、宿舎の近所の少年たちを集めて野球チームを作り、この野球少年たちの一人であったあおい輝彦(青井輝彦)が「ジャニーさんが監督なんだから、チームの名前もジャニーズでいいんじゃない」と言ったことがきっかけでチーム名を「ジャニーズ」と命名した[10]。その後チームは映画館で『ウエスト・サイド物語』を鑑賞し、感動したことからダンスの練習を始めた。この時の野球少年から選抜されたのが事務所最初のタレントグループであるジャニーズであった。喜多川は単なるタレント育成ではなくミュージカル俳優のような「歌って踊れるタレント」の育成を目指し、1962年4月にジャニーズを結成した。
1960年代 - ジャニーズ事務所 草創期ジャニーズ事務所時代のロゴ
1962年、名和プロダクション内の芸研に「芸研ジャニーズ」を作り、初代ジャニーズの4人を含め性別問わず歌やダンスのレッスンを行っていた[11]。
1964年、名和プロダクションから独立してジャニーズ事務所を設立した。この時点では法人化はされておらず、単に"ジャニーズが所属する事務所"という意味でこの名称が使われ始めた。
1968年にデビューしたフォーリーブスは当時全盛期を迎えていたグループ・サウンズ(GS)の流れに乗り「楽器を持たないGS」と通称された。 1970年代に入るとニュー・ロックやフォークソングが新たに誕生し、吉田拓郎、井上陽水、中島みゆきなどが台頭していたが、ジャニーズは非日常な舞台を演出する方針を堅持し、ジャクソン5などを模した明るいソウルミュージックに転向し、軽快なポップ路線へ切り替えた[12][13]。 1972年の郷ひろみのデビュー時には中性的なルックスを前面に押し出し、GSで特にアイドル性が高かったオックスとタッグを組んでいた筒美京平をプロデューサーに迎えた。郷と筒美はその後、1970年代中盤に隆盛したディスコを素早く取り入れた。1975年に退所した(1977年デビューの川崎麻世と、1980年デビューの田原俊彦も郷の流れを継いだ)[14]。 1970年代中盤にテレビが普及するにつれて「各家庭のお茶の間で日常を過ごしながら、僅かな非日常的空間を楽しむ」というスタイルが誕生した。阿久悠が関わった『スター誕生!』が青少年の夢と現実をつなぐ代表的な番組であり、ジャニーズでこの新たな潮流に最初に合致したのが近藤真彦であった。近藤のやんちゃなキャラクターが1950年代のオールディーズやストリートファッションなどの対抗文化の雰囲気を醸し出していると評され、ディスコ風の曲と並行してロック風の曲も発表された[15]。 なお、ジャニーズ事務所は1975年1月23日に株式会社として設立、同1月30日に法人登記され、法人化した[16]。 1980年代はアイドルビジネスの拡大に伴って多様化が進み、1982年デビューのシブがき隊は歌やダンスの技量不足をカバーするために音楽の企画性を追求し、「スシ食いねェ!」に代表されるようなジャポニスムが特徴的となった[17]。1985年デビューの少年隊はデビュー前よりアメリカ進出するなど最も経験を積んでいた。 1987年デビューの光GENJIはローラースケートでステージを所狭しと駆け回るジャニーズ史最高の爆発的ヒットを記録するなど社会現象となった。彼らの特徴であるローラースケートを用いたパフォーマンスはイギリスのミュージカル『スターライトエクスプレス』が起源である[18]。 1988年デビューの男闘呼組は、従来のジャニーズアイドルとは異色のロックバンドとなった。 1980年代デビュー勢に続いて1990年にデビューした忍者は光GENJI同様にアイドル路線を前面に出したが、1990年代初頭では男性アイドル人気が低下し、爆発的人気を誇っていた光GENJIの人気も急激に失速していった。 1991年デビューのSMAPは初期は光GENJIのような華やかなコンセプトでスタートしたが、セールス面では事務所始まって以来の低迷を続けた。SMAPのマネージャー 飯島三智やリーダー 中居正広はこの打開策を考え、アイドル像を捨ててバラエティやお笑いへ進出し[19][20]、音楽パフォーマンスと並行させることで「身近な存在」という存在位置を獲得することに成功し、マルチタレントとしてSMAPは国民的グループへと進化した[19][20][21]。 1990年代はその後もTOKIO・V6・KinKi Kids・嵐がデビューし、SMAPに続いて多方面へ進出していき、1990年代は単なる「イケメンアイドル」ではなく「マルチ路線」が特徴的となった[19][20]。また2000年代にジャニーズ事務所の変革者となる滝沢秀明を中心としたジャニーズJr.も熱狂的となった。 2000年に『ザ少年倶楽部』が放送開始され、2000年代は従来の「イケメンアイドル」的なジャニーズグループのデビューが顕著となり80年代以来の第2次アイドル大衆化となったが[19][20]、1990年代後半にジャニーズJr.の中心であった滝沢秀明がメンバーの2002年デビューの二人組グループタッキー&翼、2003年デビューの関東関西混合グループNEWS、2004年デビューのお笑いが得意な関西グループ関ジャニ∞、2006年にはワイルド路線であるKAT-TUN、2007年デビューのメンバー全員が平成生まれのHey! Say! JUMPなど個性も併せ持つグループが特徴的となった。ジャニーズJr.からは2002年にグループYa-Ya-yahが結成され、ジャニーズJr.史上初のCDデビューを果たし、5年間続いた冠番組『Ya-Ya-yah』が放送されるなどジャニーズJr.始まって以来の破格の存在となった。Four Tops・K.K.Kity・J.J.ExpressなどジャニーズJr.内のグループも多く結成されるようになっていった。
1970年代 - アイドル開拓期
1980年代 - アイドル大衆化と光GENJIの爆発的ヒット
1990年代 - アイドル路線からマルチ路線へのSMAPによる変革SMAP (2008年)
2000・2010年代 - 第2次アイドル大衆化嵐(2019年)