ジャック=ルイ・ダヴィッド
Jacques-Louis David
自画像(1794年、ルーヴル美術館蔵)
生誕1748年8月30日
フランス王国 パリ
死没 (1825-02-29) 1825年2月29日(76歳没)
ネーデルラント連合王国、ブリュッセル
代表作『ホラティウス兄弟の誓い』
『ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト』
『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』
『書斎のナポレオン
ジャック=ルイ・ダヴィッド(フランス語: Jacques-Louis David、1748年8月30日 - 1825年12月29日)は、フランスの新古典主義の画家。18世紀後半から19世紀前半にかけて、フランス史の激動期に活躍した、新古典主義を代表する画家である。 1748年、パリに商人の子として生まれた。9歳の時、父親は決闘で亡くなっている。ロココ絵画の大家であるフランソワ・ブーシェはダヴィッドの親戚(母の従兄弟)であった。当時50歳代だったブーシェは弟子を取っておらず、彼の紹介でジョゼフ=マリー・ヴィアン
目次
1 生涯
2 脚注
3 ギャラリー
4 邦語文献
生涯
長い修業期間を経て、ダヴィッドは1774年《アンティオコスとストラトニケ》で、当時の若手画家の登竜門であったローマ賞を得た。これはヴィアンに入門してから約10年後、26歳頃のことで、当時としては30歳頃が普通であり、少し早いデビューである。ローマ賞受賞者は、国費でイタリア留学ができる制度になっており、ダヴィッドも翌1775年よりイタリアへ留学した。同年、師のヴィアンはローマのフランス・アカデミーの院長としてローマへ赴任したため、師弟揃ってのローマ行きとなった。
ダヴィッドは1780年までの約5年間、イタリアで古典絵画の研究に没頭する。こうしたイタリアでの研究を機に彼の作風は、18世紀のフランス画壇を風靡したロココ色の強いものから、新古典主義的な硬質の画風へと変わっていく。ルイ16世注文の《ホラティウス兄弟の誓い》(1784年)は王室から注文を受けて制作された最初の作品だが、サロンに出品されたさいに同時代の画家が「ダヴィッドこそ今年のサロンの真の勝利者である」と述べたほど大きな評判を集め[1]、ダヴィッドの代表作の一つとなった。
1789年、フランス革命が勃発するが、このころのダヴィッドは、ジャコバン党員として政治にも関与していた。《球戯場の誓い》を描いている他バスティーユ牢獄襲撃事件にも加わっており、1792年には国民議会議員にもなっている。1793年には革命家マラーの死を描いた《マラーの死》を制作している。1794年にはロベスピエールに協力し、最高存在の祭典の演出を担当、一時期国民公会議長もつとめている。ロベスピエールの失脚に伴い、ダヴィッドの立場も危うくなり、一時投獄された。この時、自画像と唯一の風景画を残している。
国費を使って留学をしていたため、王側の人だと思われるが、ナポレオンも同じような境遇であり、ローマ愛が強かった為、意気投合する。一生ナポレオンについて行くことを誓う。段々と地位が上がっていき、最後は芸術を統括する長官に任命される。
1800年にはナポレオンがレカミエ夫人を愛人にするための贈り物として肖像画を依頼され、《レカミエ夫人像》を制作した。しかし、レカミエ夫人本人は気に入らず未完成に終わった(その後、夫人は彼の弟子のフランソワ・ジェラールに肖像画を依頼し、彼の絵画はドミニク・アングルが現在の形にした)[要出典]。