この項目では、レーシングドライバーについて記述しています。政治家の同名の人物については「ジャック・ラフィット (政治家)」をご覧ください。
ジャック・ラフィット
Jacques Laffite
ジャック・ラフィット (2015年)
基本情報
フルネームジャック=アンリ・マリー・サバン・ラフィット
Jacques-Henri Marie Sabin Laffite
国籍 フランス
出身地同・パリ
生年月日 (1943-11-21) 1943年11月21日(80歳)
F1での経歴
活動時期1974-1986
所属チーム'74-'75,'83-'84 ウィリアムズ
'76-'82,'85-'86 リジェ
出走回数180 (176スタート)
タイトル0
優勝回数6
表彰台(3位以内)回数32
通算獲得ポイント228
ポールポジション7
ファステストラップ7
初戦1974年ドイツGP
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ドライバー (チャンピオン)
コンストラクター (チャンピオン)
レース
サーキット
関係者 (チーム代表)
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表
話
編
歴
ジャック=アンリ・マリー・サバン・ラフィット(Jacques-Henri Marie Sabin Laffite, 1943年11月21日 - )は、フランス出身の元レーシングドライバー。「ジャック・ラフィー」と呼ばれることもあり、これはフランス語に近い表記とされることもあるが実際にはフランス語でもLaffiteは「ラフィット」に近い発音である[1]。 パリ出身。父は弁護士で[2]、少年時代から常に一緒に行動するような友人に、のちにルノー・ワークスなどで活躍したF1ドライバージャン=ピエール・ジャブイーユがおり、ジャブイーユ家とラフィット家はフランス中部にあるリゾート地に別荘を共同所有しているような強い絆がある関係だった。ラフィットとジャブイーユは成長後、義兄弟(お互いの妻が姉妹。ジャブイーユの妻の名前はジェヌヴィエーブ、ラフィットの妻はベルナデット。)となった[2]。 ラフィットのレーシングドライバーとしてのスタートは極めて遅く、モータースポーツに関わり始めたのが23歳、レースデビューが26歳という遅咲きである。1973年に30歳でフランスF3チャンピオンを獲得。翌年に30歳を超えてからのF1デビューであった。1975年のヨーロッパF2シリーズで6勝を挙げチャンピオン獲得、1974年・1975年とF1に参戦初期の弱小チームだったウィリアムズから参戦。同年の11月には来日し、JAFグランプリF2000クラス(のちの全日本F2)にスポット出場している[3]。 1976年、F1に1カー体制で新規参入したフランスチーム・リジェのエースドライバーに就任。1977年スウェーデングランプリで自身にとってもリジェにとっても初となるF1勝利を挙げる。同年第3戦南アフリカグランプリでは、コースマーシャルと衝突した弾みで飛んできた消化器により即死状態だったトム・プライスの車が自車と接触して止まる事になった。同年11月には前年に続いて来日し、全日本F2000選手権最終戦・鈴鹿を独走で制している[4]。なお。この優勝は日本のトップフォーミュラにおける初の外国籍選手の優勝であった[5]。 1979年からリジェは2カーエントリーに拡大され、ティレルで勝利を挙げていたパトリック・デパイユが加入し、ラフィットと優勝経験を持つフランス人コンビを組んだ。ニューマシン、リジェ・JS11の戦闘力は高く、ラフィットは開幕から2連勝を挙げてチャンピオン争いに絡んだ。年間ドライバーズランキングは4位、リジェのコンストラクターズランキングは3位と躍進のシーズンとなった。 1980年、移籍したデパイユに変わりディディエ・ピローニが加入しチームメイトとなる。改良型のJS11/15をドライブしドイツGPで優勝、年間ランキング4位を獲得。コンストラクターズ選手権では2位とリジェの最高順位となる結果を残した。 1981年、リジェにルノー・ワークスからジャブイーユが移籍してきたため、「義兄弟コンビ」となった。ラフィットはリジェ・JS17で2勝を挙げ、最終戦で優勝すればワールドチャンピオンを獲得できるポジションに付けていたが、ランキング4位で終了。3年連続でドライバーズランキング4位につけるなど安定した年間成績を残した。同年のスペインGPでは、予選終了時刻前に自身のタイムアタックを終えると最終結果を確認せずに切り上げてゴルフに出かけてしまった。結果はポールポジションを獲得し、決勝ではわずか0.211秒差及ばず2位となっている(このレースの優勝者はフェラーリのジル・ヴィルヌーヴであるが、1位から5位までがわずか1.231秒の差でフィニッシュする接戦であった。3位はジョン・ワトソン、4位はカルロス・ロイテマン、5位はエリオ・デ・アンジェリス)[6]。1982年オフに7年過ごしたリジェからウィリアムズへの復帰が決定。この1981年がラフィットのキャリア・ピークであり、すでに38才となっていた。 1983年はケケ・ロズベルグと共にウィリアムズ・FW08Cを駆り、最終戦南アフリカGPでは同年にF1復帰したホンダがV6ターボエンジンをウィリアムズに供給開始時のドライバーとなった。 1984年アメリカグランプリの際にはサーキットにパジャマ姿で現れるというエピソードを残した。これはアメリカとヨーロッパの時差により、ヨーロッパでのテレビ中継の放映時間調整のために決勝レースが通常より3時間早い午前11時スタートと設定され、ウォームアップランは午前7時開始となったことに対する皮肉を込めたラフィットのジョークであった。その姿を見たチーム関係者たちは皆爆笑したという。元F1メカニックの津川哲夫は著書「F1グランプリボーイズ」の中でラフィットを「サーキットのコメディアン」と称している。 1985年、リジェに復帰。チームメイトはアンドレア・デ・チェザリス。ラフィットは3度表彰台に登壇するなど速さを取り戻し、ランキング9位を得る。 1986年もリジェに残留。ルネ・アルヌーとフランス人コンビを組み、ルノー・ターボエンジンを搭載するリジェ・JS27をドライブとオーナーのギ・リジェが望んだオール・フレンチ体制となった。開幕戦ブラジルGPで3位表彰台、デトロイトGPで2位表彰台に立つなど、42才にして衰えの知らない元気な姿を見せていた。第9戦イギリスGPでは、当時のF1最多出走記録であったグラハム・ヒルの出走数176に並んだ。しかし、決勝レースがスタートしタイ記録が達成された直後、多重事故によりラフィットはコース右側のグリーンに押し出され、ガードレールに正面から突っ込んでしまい両足の複雑骨折を負った[7]。以後F1への復帰を目指しリハビリテーションに励み、「松葉杖も要らなくなったし、あと2年はグランプリで走る自信がある」とF1復帰を望んでいたが[8]、この86年イギリスGPが最後のF1出走となった。 30歳以上でF1デビューしたドライバーの中でもっとも決勝出走回数が多いドライバーで、前述のG.ヒルの記録に並んだ時には既に42歳になっていた。F1決勝出走176GPのレコードは、1989年にリカルド・パトレーゼが更新するまで(ヒルと並んで)F1最多出走記録であった。 1987年、ディジョンで開催されたWTC第3戦でレース復帰。アレッサンドロ・ナニーニとのコンビでアルファロメオ・A75ターボの第2ワークスカーを駆って予選14位・決勝9位でレースを終えた[9]。 その後1989年にはリジェとテスト・リザーブドライバーとして契約していた[10]。 以後、フランステレビ局のF1レース中継解説者としてサーキットを訪れている。 ラフィットのヘルメットデザインは、黒地の無地ヘルメットに、勝利したグランプリのウィナーズステッカーだけが貼られたシンプルなものがトレードマークとなっていた。
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