ジャック・ブリスコ
[Wikipedia|▼Menu]

ジャック・ブリスコ
1973年
プロフィール
リングネームジャック・ブリスコ
本名フレディ・ジョー・ブリスコ
ニックネーム南部の麒麟児
身長188cm
体重108kg(全盛時)
誕生日1941年9月21日
死亡日 (2010-02-01) 2010年2月1日(68歳没)
出身地 アメリカ合衆国
オクラホマ州
セミノール郡セミノール[1]
スポーツ歴レスリング
トレーナーアンジェロ・サボルディ(英語版)[1]
レロイ・マクガーク(英語版)[1]
カール・ゴッチ
デビュー1965年5月[1]
引退1985年2月[2]
テンプレートを表示

ジャック・ブリスコ(Jack Brisco、本名:Freddie Joe Brisco、1941年9月21日 - 2010年2月1日)は、アメリカ合衆国プロレスラーオクラホマ州セミノール出身[1]

第48代NWA世界ヘビー級王者NWAおよびWWE殿堂者。実弟ジェリー・ブリスコも元プロレスラー。
来歴

オクラホマ州立大学ではレスリングの強豪として鳴らし、NCAA全米学生選手権では1964年に2位、1965年に優勝を果たしている[3][4]。通算戦績89戦87勝2敗という実績をひっさげ、地元オクラホマ地区(NWAトライステート)のプロモーターだったレロイ・マクガーク(英語版)にスカウトされ[5]1965年5月、オクラホマシティにてロニー・ガービンを相手にプロデビュー[3][6]。以後、アスリート系のベビーフェイスとして、テキサスフロリダ、さらにはオーストラリアまで各地を転戦。オクラホマ地区では1966年、少年時代のアイドルだったという同郷のダニー・ホッジとの連戦も行われた[7]

1967年11月、日本プロレスに初来日[8]。デビュー2年目でありながら、この初来日当時から次期NWA世界チャンピオンの有力候補とされていた[9]1971年7月の再来日時には、8月5日に愛知県体育館にてアントニオ猪木UNヘビー級王座に挑戦[10]、敗れはしたものの名勝負を残している[5]。なお、日本では「南部の麒麟児」なる異名が付けられていた[9]

アメリカではフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)を主戦場に、1970年2月10日にミスター・サイトーからNWAフロリダ・ヘビー級王座を奪取[11]。以降1973年にかけて、クリス・マルコフサンダーボルト・パターソンラリー・ヘニンググレート・メフィストターザン・タイラーレネ・グレイテリー・ファンクボリス・マレンコディック・マードックボビー・ダンカンベアキャット・ライトポール・ジョーンズジョニー・バレンタインマッドドッグ・バションティム・ウッズバディ・コルトなどを相手に、フロリダ地区のフラッグシップ・タイトルである同王座の防衛戦を行った[12][13][14][15]。その間にはドリー・ファンク・ジュニアの保持していたNWA世界ヘビー級王座にも再三挑戦[16]。弟のジェリー・ブリスコともタッグを組み、1971年上期にはザ・ファンクスを相手にNWAフロリダ・タッグ王座を争った[17]

スター選手の地位を確立した後、1973年7月20日、テキサス州ヒューストンハーリー・レイスを破り、第48代NWA世界ヘビー級王者となる[18]1974年1月には全日本プロレスに初登場。前王者レイスと元王者ドリー・ファンク・ジュニアも同時参戦した豪華シリーズにおいて、ジャイアント馬場ジャンボ鶴田、ドリー、レイス、ザ・デストロイヤーの挑戦をすべて退けた[19]。同年11月の来日では、12月2日に鹿児島県立体育館で馬場に敗れ王座を奪われるも、1週間後の12月9日、豊橋市体育館にて奪回に成功している[18][19]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:100 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef