ジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ
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ジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ

ジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ (Jacques Nicolas Billaud-Varenne, 1756年4月23日 - 1819年6月3日) はフランス革命の指導者。
生涯

西部フランスのラ・ロシェル港の弁護士の家に生まれ、法律を学び弁護士になった。オラトリオ会の教授を務めたが、パリで弁護士を開業し1786年に徴税請負人の娘と結婚し、自分の名前に「ヴァレンヌ」を加えた。

1790年にジャコバン・クラブに加入。1792年8月10日のチェルリー宮殿襲撃事件を扇動して、コミューンの一因となり助役に任じられた。国民公会成立後、議員となり山岳派に属して国王の死刑に賛成した。1793年6月にはジロンド派の没落にも荷担した。派遣議員としてヴァンデの反乱の鎮圧に参加。公安委員会の急進的な一員となり恐怖政治の推進を主張した。しかし嫉妬からロベスピエールの独裁を非難し始めるようになる。

テルミドールのクーデターではタリアンと組んでサン=ジュストの発言を封じ、ロベスピエールの失脚に一役買った。以後は1794年9月1日に公安委員を辞し反動の行き過ぎと戦おうとしたが、過激なテロリストとしてしばしば攻撃され、1795年3月2日ついに逮捕された。コロー・デルボワらと一緒に翌年南米ギアナへ流刑された。20年間の流刑生活の後、1814年赦免されたがナポレオンの政府を容認せずに恩赦を拒否し、フランスに帰国しなかった。その後アメリカ本土に渡り、1816年ハイチに移住し、ポルトープランスで病死した。

先代:
ロベスピエール国民公会議長
1793.09.05 - 1793.09.19次代:
ジョゼフ・カンボン










フランス革命


年表

アンシャン・レジーム

原因(英語版)

革命

立憲王政

共和政

総裁政府

統領政府

 主要事件

1788年

屋根瓦の日(英語版)(1788年6月7日)

ヴィジーユ会議(英語版)(1788年7月21日)

1789年

レヴェイヨン事件(英語版)(1789年4月28日)

全国三部会の召集(英語版)(1789年5月5日)

国民議会(1789年6月17日?7月9日)

球戯場の誓い(1789年6月20日)

憲法制定国民議会(1789年7月9日?1791年9月30日)

バスティーユ襲撃(1789年7月14日)

大恐怖(英語版)(1789年7月20日?8月5日)

人権宣言(1789年8月27日)

ヴェルサイユ行進(1789年10月5日)

1790年

高等法院の廃止(1790年2月?7月)

貴族階級の廃止(英語版)(1790年6月19日)

聖職者民事基本法(1790年7月12日)

1791年

ヴァレンヌ逃亡事件(1791年6月20日?21日)

シャン・ド・マルスの虐殺(1791年7月17日)

ピルニッツ宣言(1791年8月27日)

1791年憲法(1791年9月3日)

立法議会(1791年10月1日?1792年9月)

1792年

ブラウンシュヴァイクの宣言(1792年7月25日)

パリ・コミューンの暴徒化(1792年6月)

8月10日事件(1792年8月10日)

九月虐殺(1792年9月)

国民公会(1792年9月20日?1795年10月26日)

第一共和政の成立(1792年9月22日)

1793年

ルイ16世の処刑 (en) (1793年1月21日)

革命裁判所(1793年3月9日?1795年5月31日)

恐怖政治(1793年6月27日?1794年7月27日)

公安委員会

保安委員会 (en) 


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