ローヌ男爵アンヌ=ロベール=ジャック・テュルゴー(Anne-Robert-Jacques Turgot, Baron de Laune, 1727年5月10日 - 1781年3月18日)は、フランス・ブルボン朝の政治家であり、また重農主義経済学者である。彼の経済学の根底にはルソー、モンテスキューと共通する自然法の発想を持つ18世紀の『啓蒙思想家』でもあり、「啓蒙主義経済学者」とも言われる[1]。 ジャック・テュルゴーは1727年にパリで、由緒ある法服貴族でパリ市長(パリ市商人頭)も務めた裕福な商人の三男として生誕。幼い時から神学教育を受け、1749年にソルボンヌ神学部(パリ大学)に入ると神学のみならず経済・数学・言語・歴史・哲学/自然哲学(物理学)など広範囲にわたる学問の修得で頭角をあらわし、あくる1750年にはパリ大学内ソルボンヌ僧院長に選ばれる。[3] 1751年に父が死去すると僧籍から離れ、52年パリ高等法院検事総長補佐官の職を買い、国王政府の仕事を始める[4]。1750年代にはグラフィニー夫人のサロンに頻繁に出入りしていた[5]。 1754年、商務監督官ヴァンサン・ド・グルネー
テュルゴーの思想はアダム・スミスに強い影響を与えている[2]。なお、名前は日本語で「チュルゴー」「チュルゴオ」等と表記されることもある。
目次
1 経歴
2 邦訳
3 参考文献
4 出典・脚注
5 関連項目
6 外部リンク
経歴
1760年スイスにヴォルテールを訪問し、この頃フランソワ・ケネーなどと親交を結ぶ[8]。1761年リモージュ州の総徴税区長官(知事)となり1774年まで13年間その職に在った[4]。知事在職中の1766年に、『富の形成と分配にかんする諸考察(Reflexions sur la formation et la distribution des richesses)』を書き上げ、デュ・ポン・ド・ヌムールに送った。デュ・ポンは、これを3年後の1769年から70年にかけて、自身が編集していた雑誌『市民日誌』に掲載・紹介した。ただしその際、デュ・ポンはケネー派の主張に沿うようテュルゴーの原稿を加筆・修正し、テュルゴーの真意と異なるかたちとなったため、自身のオリジナル・テクストどおりのものを、別刷としてデュ・ポンに印刷させた[9]。
ルイ16世統治初期の1774年5月に海軍大臣に任命され、8月に財務総監に転任した。財務総監時代には、デュ・ポン、コンドルセを片腕として、穀物取引の自由化やギルドの廃止を行い、自由主義的な立場から財政再建を図った。しかし、折しも1775年に小麦が不作となったことから、「小麦粉戦争」と呼ばれる農民一揆が生じて自由化政策が批判され、さらには特権身分の反対(レントシーキング)を受けて、1776年5月に辞職した。
その後は隠棲してパリで自分の好きな研究に勤しんだが、フランス革命の始まりを見ることなく1781年、痛風が元で死去した(53歳)[10]。