ジャック・シラク
Jacques Rene Chirac
1997年7月16日
フランス
第22代大統領
任期1995年5月17日 – 2007年5月16日
首相アラン・ジュペ
リオネル・ジョスパン
ジャン=ピエール・ラファラン
ドミニク・ガルゾー・ド・ビルパン
アンドラ
共同大公
任期1995年5月17日 – 2007年5月16日
共同大公ジュアン・マルティ・アラニス
ジュアン・エンリク・ビベス・イ・シシリア
フランス
第6・10代首相
任期1974年5月27日 ? 1976年8月26日
1986年3月20日 – 1988年5月10日
大統領ヴァレリー・ジスカール・デスタン
フランソワ・ミッテラン
フランス
第6代内務大臣
任期1974年2月27日 – 1974年5月27日
大統領ジョルジュ・ポンピドゥー
アラン・ポエール(臨時大統領)
内閣第3次ピエール・メスメル内閣
出生 (1932-11-29) 1932年11月29日
フランス パリ5区
死去 (2019-09-26) 2019年9月26日(86歳没)
政党共和国民主連合(UDR)
共和国連合(RPR)
国民運動連合(UMP)
出身校パリ政治学院
配偶者ベルナドット・シラク
子女2人
署名
ジャック・ルネ・シラク(フランス語:Jacques Rene Chirac、 Jacques Rene Chirac
[ヘルプ/ファイル]、[?ak ??ne ?i?ak]、1932年11月29日 - 2019年9月26日[1])は、フランスの政治家。ヴァレリー・ジスカール・デスタン政権及び第1次コアビタシオンでのフランソワ・ミッテラン政権で第6・10代フランス首相、第22代フランス大統領及びアンドラ共同大公を歴任した。1932年11月29日にパリの5区内にある医院で誕生した。父親は銀行員で、後に飛行機会社の役員になった。そして中学校から高校時代にかけて4校に在籍した。ヴェルサイユのリセ・オッシュ
に1年、それからパリ8区の私立アトメール校、パリ17区のリセ・カルノ、パリ5区のリセ・ルイ=ル=グランなどを経てバカロレアを取得し、1954年にパリ政治学院を卒業。在学中にハーバード大学サマースクールに留学経験がある。1950年代はフランス共産党員であり[2]、ストックホルム・アピールに署名するなどしていた[3]。1956年に軍隊に召集され、将校としてアルジェリア戦争に従軍、負傷した。1959年、フランス国立行政学院を卒業後国家公務員となり、1962年まで会計検査官を務めた。のち、シャルル・ド・ゴールのもとで首相を務めるジョルジュ・ポンピドゥーの官房に入り、ポンピドゥーの庇護を得るなど、急速に出世した。この頃から、旺盛な行動力により「ブルドーザー」の異名を得る。ポンピドゥー首相官房で一緒だったひとりに、のちに首相となるエドアール・バラデュールがおり、当時から「動のシラク、静のバラデュール」と称され将来を嘱望された存在であった。1967年にポンピドゥーの勧めで国民議会議員選挙に出馬して当選して社会問題相として初の閣僚を経験した。その後も閣僚ポストを歴任し、ポンピドゥーのもとで1972年に農相、1974年に内務大臣と、重要閣僚を務めた。ポンピドゥー没後、ヴァレリー・ジスカール・デスタンの下で1974年5月から1976年まで首相を経験した。1976年にドゴール主義政党の共和国民主連合を継承して、共和国連合を創設し、総裁となる。1986年に再び首相に返り咲く。1977年から1995年まで長くパリ市長を務めた。この間、1981年と1988年に大統領選挙に出馬したが、いずれも社会党のフランソワ・ミッテランに敗れている。 1995年5月の大統領選挙で社会党のリオネル・ジョスパンを下して大統領府であるエリゼ宮殿の主となった。
大統領就任2001年、アメリカ合衆国大統領のジョージ・W・ブッシュ(右)と共同記者会見を行うシラク2003年、フランス・エヴィアン=レ=バンでのエヴィアン・サミットにフランス共和国大統領として参加(左端)。ブッシュ、ブレア、ベルルスコーニの各首脳と2005年、ロシア・モスクワにてロシア連邦大統領(当時)のウラジーミル・プーチン(左)と
核実験の強行