ジャック・カービー
1992年
生誕Jacob Kurtzberg
(1917-08-28) 1917年8月28日
アメリカ合衆国ニューヨーク州
ニューヨーク市
死没1994年2月6日(1994-02-06)(76歳)
アメリカ合衆国
カリフォルニア州ベンチュラ郡
サウザンドオークス
国籍アメリカ合衆国
役割
ライター
ペンシラー
アーティスト
インカー
エディター
ペンネームジャック・カーティス、カート・デイヴィス、ランス・カービー、テッド・グレイ、チャールズ・ニコラス、フレッド・サンド、テディ
主な作品キャプテン・アメリカ、ファンタスティック・フォー、ソー、アベンジャーズ、アイアンマン、ハルク、ブラックパンサー、フォース・ワールド
ジャック・カービー(Jack Kirby、出生名ジェイコブ・カーツバーグ(Jacob Kurtzberg)、1917年8月28日 - 1994年2月6日)は、アメリカン・コミックの作画家、原作者、編集者。コミックメディアを革新した重要人物の一人であり、有数の執筆量や影響力を持つと考えられている。コミックファンの間では「ザ・キング」と呼ばれている。
1930年代に初期のコミック界に入り、1940年代にはジョー・サイモンとのコンビでスーパーヒーローのキャプテン・アメリカを生み出すなど大きな成功を収めた。第二次世界大戦に従軍した後に、サイモンとともにロマンス・コミックスのジャンルを創始した。1950年代末からマーベル・コミックで作画家として活動を始め、原作者・編集者スタン・リーの下でファンタスティック・フォー、X-メン、ハルクなど歴史に残るキャラクターの多くを作り出した。しかしマーベルから作者クレジットなどの面で不当な扱いを受けていると感じ、1970年にライバルのDC社に移籍した。DCでは原作と作画を兼任して「フォースワールド」シリーズなどを残した。その後はテレビアニメやインディペンデント・コミックの分野に活動の場を移した。1987年、アイズナー賞名誉の殿堂に名を連ねた最初の3人の一人となった。後年にはコミック外のメディアからも業績を高く評価されるようになった。76歳で心不全によって死去。 1917年8月28日にニューヨーク、マンハッタンのロウアー・イースト・サイドにあるエセックスストリート147番地で生まれ、そこで育った。出生名はジェイコブ・カーツバーグ (Jacob Kurtzberg) である。母ローズマリーと父ベンジャミン・カーツバーグはユダヤ系オーストリア人の移民で、ベンジャミンは衣料品工場で働く労働者だった[1][2]。若きカービーはその環境を抜け出したいと願っていた。絵を描くのが好きだったため、美術を学べる場所を求めていた[3]。絵は自己流に学んだが[4]、影響を受けた相手としてコミックストリップ作家ミルトン・カニフ
経歴
生い立ち (1917?1935)
14歳でブルックリンのプラット・インスティテュートに入学するが、1週間で退学したという。「私はプラットが求めていた学生ではなかった。求められていたのは、いつまでも何かに取り組み続ける人間だった。私はどんな課題でもずっとやり続けるのはまっぴらだ。どんどん片づけていきたかった」と語っているが[6]、辞めたのは経済的な理由も大きかった[7]。 1936年にリンカーン・ニュースペーパー・シンジケートに入社し、そこでコミックストリップや、Your Health Comes First!!!(ジャック・カーティス名義)のような1コマの読者相談漫画を描いた。1939年の末にアニメ映画制作会社のフライシャー・スタジオに移り、『ポパイ』の動画を描いた。カービーはこう回想する。「リンカーンからフライシャーに移ったが … ああいう所にはどうしても耐えられなくて、さっさと抜け出してしまった。… 父が働いていた工場のようなものだ。あそこは絵を生産する工場だったんだ」[6] 米国のコミックブック界にはブームが訪れていた。このころ、出版社からコミックブック制作を請け負うスタジオ(パッケージャー 多くのコミック出版社で職を探した末に[10]、コミックブックのほか新聞へのシンジケート配信も行っていたフォックス・フィーチャー・シンジケート
コミック界入り (1936?1940)
ジョー・サイモンとのパートナー関係 (1941?1942)
サイモンとカービーはフォックスを退社し、パルプ・マガジンの出版を手掛けていたマーティン・グッドマン(英語版)のタイムリー・コミックス(英語版)(後のマーベル・コミックス)で仕事を始めた。同社では1940年の後半に愛国ヒーローのキャプテン・アメリカを創造した[16]。タイムリーの編集者となっていたサイモンはグッドマンにキャプテン・アメリカを売り込み、利益の25%を受け取れるよう交渉した[17]。1941年の始めに刊行された『キャプテン・アメリカ・コミックス』第1号は[18] 数日で完売し、第2号の発行部数は100万部を超えた。このヒットはサイモンとカービーのコンビを業界における有名作家の地位に押し上げた[19]。カービーの斬新奇抜なアートは同業者から賛嘆をもって迎えられた[20]。『キャプテン・アメリカ』は実在のドイツ総統ヒトラーを悪役として描いていたが、この時点で米国はまだ第二次大戦に参戦しておらず、ともにユダヤ人である作者二人が国内のナチスシンパから脅迫を受けることもあった[21]。
二人はタイムリー外でもフォーセット・コミックス(英語版)の『キャプテン・マーベル・アドベンチャーズ』創刊号(1941年)を共作した[22]。既に人気があったキャプテン・マーベルをアンソロジー誌から独立させたタイトルであり、カービーはオリジナルの作者C・C・ベック(英語版)の画風を真似るよう要求された[23]。
キャプテン・アメリカを大ヒットさせたサイモンだったが、グッドマンが約束通りの配当を支払っていないと感じ、カービーとともに大手のナショナル(英語版)社(後にDCコミックスに改名)に移籍することを目論んだ[17]。タイムリーでの週給が75ドルと85ドルだったのに対し、ナショナルでは合計で500ドルの契約を交わすことができた[24]。二人は移籍の話がグッドマンの耳に入れば給金が支払われないのではないかと危惧していたが、この計画を知っていた人間は多く、タイムリーの編集アシスタントスタン・リーもその一人だった[25]。グッドマンも最終的にこれを知り、サイモンとカービーに『キャプテン・アメリカ・コミックス』第10号を仕上げてから退社するよう言い渡した[25]。二人はスタン・リーがグッドマンに密告したのだと信じていた[26]。あいつらのスクリプトは一度も使わなかった。DCからスクリプトが届いたら、窓から飛ばしてしまうんだ。[…] 考えて作ったものは好きじゃないんだよ。俺は生み出す。あいつらは考え出す。わかるか?ジャック・カービー, 1990年[27]
移籍後、カービーとサイモンは最初の週を費やして新キャラクターの案出に取り組んだ。一方でナショナル側はコンビをどう用いるべきか模索していた[28]。編集者が用意した原作を二人が拒絶し続けていると[29]、発行人ジャック・リーボウィッツ(英語版)は「やりたいことをやれ」と告げた。そこで二人は『アドベンチャー・コミックス(英語版)』の連載「サンドマン(英語版)」のリニューアルを行い、また新たなヒーローマンハンター(英語版)を作り出した[30][31]。1942年7月には、当時進行中だった世界大戦の少年部隊を主人公とする「ボーイ・コマンドーズ(英語版)」の連載を始めた。