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出典検索?: "ジャック・カルティエ"
ジャック・カルティエ
Jacques Cartier
テオフィル・アメルによる1844年頃作のジャック・カルティエの肖像画。同時代の肖像画は知られていない。
生誕1491年12月31日
ブルターニュ公国・サン・マロ
死没 (1557-09-01) 1557年9月1日(65歳没)
フランス王国・サン・マロ
職業フランス人航海者・探検家
著名な実績ヨーロッパ人で初めて北アメリカ内陸部を探検し、カナダにおけるフランス領有権を主張した
署名
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ジャック・カルティエ(Jacques Cartier、1491年12月31日 - 1557年9月1日[1][2])は、フランス・ブルターニュ地方サン・マロ出身のブルトン人探検家・北米への侵略者。セントローレンス湾とセントローレンス川岸にヨーロッパ出身者として初めて到達し、イロコイ族の言葉からその周辺の土地を「カナダ」と名付け記述したことで知られる。
北米大陸へ3度の探検を行い、プリンス・エドワード島やセントローレンス河口に到達、現在のケベックに上陸し、後のフランスによるカナダ領有の基礎を築いた。 カルティエは1491年にブルターニュ公国の北西にある港町サン・マロで生まれた[注釈 1]。腕のいい航海者だったカルティエは1520年に、この地の指導層の一族であるMary Catherine des Granchesと結婚することで社会的地位を向上させた[3]。サン・マロでの彼の令名は、名親や証人として洗礼の記録の中に頻繁に登場することからもうかがい知ることができる[4]。カルティエは各地に航海を繰り返し、その中にはブラジルや、1497年にジョン・カボットによって発見されたのち世界有数の好漁場としてフランスの漁民が群がるようになったニューファンドランドも含まれていた。 1532年にブルターニュ公国がフランスとの連合を行ってから2年後の1534年、カルティエはサン・マロ司教にしてモン・サン・ミシェル修道院長であるJean Le Veneurによって、フランス国王フランソワ1世に紹介された。フランソワ1世は北アメリカ大陸の北側を抜けてアジアへと抜ける、いわゆる北西航路の探索に力を入れており、すでに1524年にはジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノを北アメリカ大陸に派遣し、現在のサウスカロライナ州からニューファンドランドまでの海岸を探索させていた。しかしこの探検においては目立った発見がなかったため、フランソワ1世はその北側の地域の探索をカルティエに命じた。 最初の探検行は、フランス国王フランソワ1世の命により[5]、1534年4月に2隻の船でサンマロを出航。まずニューファンドランド島の北東部を航海し[要出典]、ラブラドール半島とニューファンドランドの間にあるベルアイル海峡を抜けてニューファンドランドの北西部を探索。そこからさらに南西へと航海を続け、マドレーヌ諸島を経由してセントローレンス湾を横断し、プリンス・エドワード島を発見。ここから北へと転じ、7月にはガスペ半島の東端(現在のガスペ市)に到達し、ここに十字架を建てて「ヌーベル・フランス」と名付け、この地のフランス領有を宣言した。その後セントローレンス湾の付近を探検し、この地方のイロコイ族の首長ドンナコナ(Donnacona
前半生
3度の北米探検行
第一次航海(1534年)第一次航海の航路
第二次航海(1535年 - 1536年)第二次航海の航路
第二回の探検行は1535年5月13日、3隻の船と110人の乗組員で行われ、ドンナコナの2人の息子も同行した。今回の探検においては、前年探検し残したセントローレンス湾の西端部へ直行し、9月7日にはセントローレンス湾の最奥部にあるイロコイ族の村落スタダコナ(Stadacona、現在のケベック)に到達し、ドンナコナと会した。なお、カルティエはスタダコナとその周辺の土地や川を「カナダ」と呼んでいる。カルティエとイロコイ族の関係は良好であり、カルティエはドンナコナの家でタバコを振舞われた。また更に北にあるという黄金の地サグネ王国(Royaume du Saguenay)について知った。
スタダコナには大きな河川(セントローレンス川)が流れ込んでおり、カルティエはこの河川こそが北西航路であると信じて、さかのぼってさらに上流へと向かうことに決めた。セントローレンス川をさかのぼった一行はイロコイ族の要塞村落オシュラガ(Hochelaga、現在のモントリオール)へ到達、そこにある山をモン・ロワイヤル(le mont Royal、フランス語で「王の山」の意)と名付けた。現在のモントリオール(フランス語でモンレアル)は、この山の名前に由来する。しかしオシュラガの上流には急流があり、それ以上川をさかのぼるのは不可能であった。カルティエはこの急流を中国(フランス語では、la Chine、ラ・シーヌ)への道を阻むものだと考え、ここをラシーヌ瀬(ラピッド・ドゥ・ラシーヌ、Rapides de Lachine)と名付けた。10月11日にはスタダコナへと戻ったが、フランスに戻るにはすでに寒くなりすぎていたため、カルティエはスタダコナで越冬し、翌年5月まで過ごした。この越冬時には船団は氷に閉じ込められ、壊血病の流行で少なくない死者が出ている。
カルティエは、次回の航海で連れ帰る約束で、首長ドンナコナの息子2人を含む10人の先住民を同行し5月にフランスへ向け出帆した。帰路はガスペ半島からマドレーヌ諸島、ケープ・ブレトン島北側を通過し、ニューファンドランド島南岸を航海するルートを取った。このとき、サンピエール島・ミクロン島に上陸している。