ジャッキー吉川とブルーコメッツ
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ジャッキー吉川とブルー・コメッツ
Jackey Yoshikawa & His Blue Comets
別名ブルー・コメッツ
ブルコメ
コメッツ
出身地
日本
ジャンルグループ・サウンズロックポップス歌謡曲J-POPディスコポップ
活動期間1957年 -
レーベルCBSコロムビア
(1965年-1968年)
日本コロムビア
(1968年-1972年)
ビクター音楽産業
(1973年-1984年)
BLUE COMETS RECORDS
(2002年-現在)
事務所大橋プロダクション
→オフィス・アタック
公式サイト ⇒http://www.bluecomets.jp/

メンバー

※ 太字の人物は存命中

ジャッキー吉川ドラムス

小田啓義オルガンキーボードボーカル

高橋健二ベース、ボーカル

井上忠夫フルートサックス、ボーカル

三原綱木ギター、ボーカル


旧メンバー本文参照

ジャッキー吉川とブルー・コメッツ(ジャッキーよしかわとブルー・コメッツ、Jackey Yoshikawa & His Blue Comets)は、日本のバンドで1960年代に一世を風靡したグループ・サウンズの1つ。1957年に結成されたロックコンボが母体。グループ名の由来は[1]「どの星よりも光り輝く彗星のように」である。当時の所属芸能事務所は大橋プロダクション(渡辺プロダクションと業務提携)。21世紀の所属事務所はオフィス・アタック。略称は「ブルコメ」が定着しているが、公式では「コメッツ」を用いている。なお、ステージ用の衣装スーツは紳士服メーカー「エドワーズ」の特別製を着用していた。
メンバー

「ジャッキー吉川とニューブルーコメッツ」のメンバーを含む(正式な加入脱退時期は不明)。

大橋道二
ベース:1957年 - 1962年

ジャッキー吉川 ドラムス:1958年 - 2020年(2020年死去)

高橋健二 ベース、ボーカル:1962年 - 1963年、1965年 - 1972年、2002年 - 2021年(2021年死去)

三原綱木 ギター、ボーカル:1964年 - 1972年、2002年 -

井上忠夫(井上大輔)フルート、サックス、ボーカル:1963年 - 1972年(2000年死去)

小田啓義 オルガン、キーボード、ボーカル:1961年、1964年 - 1984年、2002年 -

江藤勲 ベース:1963年 - 1965年(2015年死去)

ヒロ池ヶ谷 ドラムス:1972年 - 1977年

白鳥健二 ベース、ボーカル:1972年 - 1977年

姫神じゅん ギター、ボーカル:1972年 - 1977年

山根宮子 キーボード、ボーカル:1972年 - 1977年

佐伯芳江 キーボード、ボーカル:1972年 - 1977年

山瀬聡 ボーカル:1977年 - 1980年

金崎タミキ ベース、ボーカル:1977年 - 1984年

早見タロー ギター、ボーカル:1977年 - 1984年

渡辺トオル サックス、フルート、ボーカル:1977年 - 1984年

上瀧洋之 ボーカル:1984年 - 2002年

平石友実 ベース:1984年 - 2002年

森本博夫 ギター:1984年 - 2002年

中野誠 キーボード:1984年 - 2002年

高橋毅 ボーカル

土井立庭 ギター

岸明樹 キーボード

白川博朋 ベース

安田一平 ギター

略歴

ジャッキー吉川とブルー・コメッツの前身であり母体であるブルー・コメッツは、1957年9月、大橋道二、ロジェ滋野(男爵滋野清武とフランス人妻との子)ら米軍キャンプ回りのバンドマンを中心に結成された。専属シンガーを付け、渋谷のジャズ喫茶を中心に活動した。1959年6月には、来日したジーン・ヴィンセントの地方巡演のツアーバンドに選ばれる程までに音楽性を高めた。1959年9月、一旦解散するが、彼らの支持者だった鹿内タカシによって再興され、1960年4月に新メンバーで再スタートした。当初は鹿内タカシをメインに中尾ミエ伊東ゆかり園まりこまどり姉妹尾藤イサオアイ・ジョージら、多数の歌手のバックバンドとしてコンサートやスタジオ・レコーディングをこなし「日本一の伴奏グループ」を目指していた。フジテレビの「ザ・ヒットパレード」出演を機に注目を集めるようになり、1965年にはザ・ピーナッツのバックで第16回NHK紅白歌合戦に出演を果たす。

1961年に小田啓義が加入するが1年で「田代久勝とウエスタンキャラバン」に移籍。

1962年に大橋の引退により高橋健二が加入。

1963年からはジャッキー吉川がリーダーになり(ジャッキー吉川を参照)、高橋が脱退し、ベーシストの江藤勲に交代。また井上忠夫が加入。

1964年に小田が復帰し、三原綱木も加入。

1965年に江藤が脱退し、高橋が復帰したことにより、グループ・サウンズ全盛時代を築くメンバーがほぼ揃った[2]

地方公演で電車に降り損ねた尾藤イサオの代役で唄ったのをきっかけにグループ・サウンズとしての活動が始まったとされていたが、小田の証言で「バックバンドとしての紅白出演(1965年)に飽き足らなくなった井上が、『バックバンドは所詮裏方である。僕らは唄ってこそ本物のグループになれるんだ。』とバンドの方向性を見直す進言をし、ザ・ヒットパレードのディレクターであった椙山浩一(のちの作曲家すぎやまこういち)に相談をもちかけ、CBSコロムビアからのデビューに至った。」と詳細な経緯が明らかになっている。本格的なデビューに先駆けてブルー・コメッツはマネージャー川村龍夫の助言により「デューク・エイセス」の当時のセカンド・テナー、和田昭治にコーラスの猛特訓を受ける。

1966年日本コロムビア(レーベルは洋楽部門のCBSコロムビア[注釈 1])から発売された(ボーカル入りの楽曲としては)デビュー曲となる英語盤の青い瞳「Blue Eyes」が10万枚、日本語盤の「青い瞳」が50万枚のヒットになった。日本コロムビアは家電部門の業績悪化で当時5億円の借金を抱えていたが、ブルー・コメッツの偉業で窮地を脱した。66年には彼らは、ザ・ドリフターズ内田裕也らとともにビートルズの日本公演[3]の前座として出演。その際彼らはビートルズよりやや低めの位置に設けられたステージで井上忠夫作曲のビートルズ讃歌「ウェルカム・ビートルズ」を演奏した。ビートルズのメロディーやハーモニーを重視した曲作りは彼らを経て日本独特のグループサウンズへと受け継がれた[4]。その後も「青い渚」「何処へ」など順調にヒットを連ねていき、1967年に発売された「ブルー・シャトウ」は自身最大の150万枚の大ヒットを記録し、この年の第9回日本レコード大賞を受賞。名実ともに「日本一のグループ」になった。

「グループ・サウンズ=不良」のイメージが強かった1960年代当時、数多のグループ・サウンズの中でザ・ワイルドワンズと共にNHKへの出演が許され、NHK紅白歌合戦第17回(1966年)から3回連続(前年のザ・ピーナッツのバックを含めれば4回連続)で出場した。これはまず何より、他のグループ・サウンズよりも圧倒的に音楽的水準が高かったことである。全てのメンバーは読譜力に優れ、作編曲ができ、卓越した楽器演奏とアンサンブル、緻密なコーラス・ワークで、あらゆるジャンルを高い完成度で演奏できるバンドだった。

NHK紅白歌合戦に出演できた理由は、外見が短髪でスーツ姿=銀行員風のサラリーマンに見えることが、評価されたからでもある。(「ジジコメ」というあだ名すらついたこともある。)もっとも、メンバーにしてみれば、長髪が似合わなかったから短髪にしていただけで、NHKへの出演を意図していたものではなかった。逆にコンサートなどでかつらを被って長髪を試したところファンに不評だった(ただし、70年代に入ると三原やジャッキー吉川が髪を伸ばすようになっている)。


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