ジャスティファイ・マイ・ラヴ
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「ジャスティファイ・マイ・ラヴ」
マドンナシングル
B面エクスプレス・ユアセルフ(1990)(リミックス)
リリース1990年11月6日(世界)
1990年12月2日(イギリス)
1990年12月10日(日本)
規格CDCDマキシシングルビデオ
カセットテープ7"
録音1990年
ジャンルポップス
時間4分59秒
レーベルサイアー・レコードワーナー・ブラザース・レコード
作詞・作曲レニー・クラヴィッツイングリッド・シャヴェイズ、マドンナ
プロデュースレニー・クラヴィッツ、アンドレ・ベッツ
チャート最高順位


1位(米国)[1]

2位(イギリス)[2]

マドンナ シングル 年表

ハンキー・パンキー
(1990年)ジャスティファイ・マイ・ラヴ
(1990年)レスキュー・ミー
(1991年)

ミュージックビデオ
「Justify My Love」 - YouTube


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「ジャスティファイ・マイ・ラヴ」(Justify My Love)は、1990年に発売されたマドンナのシングルである。シングルは初のベスト・アルバムウルトラ・マドンナ?グレイテスト・ヒッツ』に新曲の一つとして収録されており、同年にサイアー・レコードからリード・シングルとしてリリースされた。

この曲はレニー・クラヴィッツイングリッド・シャヴェイズによって書かれ、マドンナが補作詞を手がけた。シャヴェイズは当初曲のクレジットに名前が載せられていなかったため、クラヴィッツに対する訴訟が発生した。シャヴェイズとは法廷外で和解し、その条件にはシャヴェイズを作詞作曲のクレジットに追加する事が含まれていた。マドンナのボーカルは主に歌を歌うという感じではなく、話し声と囁き声で構成されている。これは彼女が次のスタジオ・アルバム『エロティカ』(1992)で採用したスタイルでもある。

音楽的にはミッドテンポなトリップホップの曲であり曲の歌詞は主にセックスとロマンスについて歌っている。「ジャスティファイ・マイ・ラヴ」は、古い批評家からさまざまなレビューを受けたが、マドンナのこれまでで最高の曲の1つとして多くの批評家からは注目を浴び評価された。この曲はマドンナにとって9曲目のナンバーワン・シングルとなり、Billboard Hot 100で2位になり、オーストラリア、カナダ、フィンランド、ニュージーランド、イタリア、スイスなどのいくつかの国ではトップ10に入った。

ミュージック・ビデオは、ホテルの廊下を歩いているマドンナを仕事に疲れストレスを溜めてる女性として描写し、その女性が謎の男や女とのセックスに誘惑される様を描いている。その露骨で性的なイメージのためにビデオは世界中で論争を引き起こし、その後MTVや他のTVネットワークから放送禁止の措置を受けた。サドマゾヒズム、盗撮、バイセクシュアリティのシーンを含むこのビデオは、1990年12月3日、ABCの深夜のニュース番組『ナイトライン』で米国における初のテレビデビューを果たした。この曲は彼女のコンサートツアーのセットリストに4回に渡って選ばれ、一番最新の披露は2023年のThe Celebration Tourである。2003年、雑誌のQは「史上最高の1001曲」のリストの中で「ジャスティファイ・マイ・ラヴ」を842位に選んだ[3]
背景

「ジャスティファイ・マイ・ラヴ」は元々プリンスの弟子であり友人であるイングリッド・シャヴェイズとレニー・クラヴィッツによって書かれ録音された。彼とプロデューサーのアンドレ・ベッツが作曲し、シャヴェイズはクラヴィッツのために書いたポエムに基づいて歌詞を書いた[4]。クラヴィッツはタイトルフックとコーラスをデモに追加し、マドンナはその中の1行を修正した[5]。シャヴェイズはこの曲のクレジットに当初載っておらず、1992年にクラヴィッツを訴えた。彼女は法廷外での和解により、作品の共同執筆者として載せられた。訴訟が和解した際にシャヴェイズの弁護士スティーブンE.カーツはマドンナによる補作詞は訴訟の中で特に疑問視されていなかったことを明らかにしている[6]。曲は『ウルトラ・マドンナ』発売の3日前である1990年11月6日にリリースされた。

クラヴィッツは、パブリック・エナミーのインストゥルメンタル曲「セキュリティ・オブ・ザ・ファースト・ワールド」におけるドラムパートを同意なしに使用した[7]。このパートはジェームス・ブラウンの「ファンキー・ドラマー」のエンドドラムブレイクが元々の発祥であり[8]、この部分は曲の基礎部分として使われた。マドンナのボーカルは主に話し声のようでほとんど歌わずまるで囁きのようだという点でこの曲は珍しいものであった。このボーカル・スタイルは彼女の次のアルバム『エロティカ』に引き継がれ、アルバムの中の数曲は本楽曲と同様のスタイルで歌われた。バックコーラスはマドンナとクラヴィッツが行った。チャベスは以前プリンスの1988年の曲「Eye No」に「スポークン・イントロ」を提供しており[9]、1991年のデビューアルバムでのチャベスのボーカル・スタイルは「息もれ声のパッセージ」と呼ばれていた[10]
チャート・パフォーマンス

米国ではBillboard Hot 100の1990年11月17日付けの号に46位で初登場した[11]。8週間後には1位となり、2週連続の1位を記録した[12]。同じくビルボードのホット・ダンス・クラブ・ソング・チャートでも首位となり、ホットR&B/ヒップホップソングのカテゴリーチャートでは42位に達した。1991年2月22日、この曲は100万枚以上の販売でアメリカレコード協会(RIAA)からプラチナ認定を受けた。2020年12月現在、「ジャスティファイ・マイ・ラヴ」は米国で500万枚を売り上げている[13]。1991年の年間チャートでは21位にランクインした。曲はカナダでも成功し1991年2月2日の週にチャートの首位に立った。この曲は最終的に5万枚の出荷でMusic Canada (MC)からゴールド認定を受けた。オセアニアではこの曲はARIAチャートの14位で初登場し、最終的には4位が最高位だった。オーストラリアレコード産業協会(ARIA)からはゴールド認定を受けている。ニュージーランドではこの曲は22位でデビューし2週間連続の5位が最高位だった。

イギリスでは1990年12月2日に9位で初登場し、翌週に2位を獲得した[14]。英国レコード産業協会(BPI)からシルバーの認定を受けている。2017年8月の時点でこの曲は英国で275,500枚を売り上げ、イギリスで発売されたマドンナのシングルの中で23番目に売れた曲である[15]。この曲はヨーロッパの他の地域でも成功を収めた。オーストリアでは1991年1月13日の週に21位でデビューし、1か月以内に9位に達した。1990年12月17日、この曲はドイツで50位で初登場し、最終的に2週間後に最高位10位を記録した。この曲はスウェーデンでは16位で初登場し、最終的には1週間後の8位が最高位だった。スイスでは1991年1月13日に12位でデビューし、2週間後に3位を記録するなどより多くの成功を収めた。曲は1991年1月12日付けのヨーロッパ Hot100チャートでも3位になった。
ミュージック・ビデオ
背景

ミュージック・ビデオは1990年11月9日にパリで「オープン・ユア・ハート」のビデオでマドンナと一緒に仕事をした事があるジャン・バプティスト・モンディーノによって監督された[16]。マドンナの当時のボーイフレンドでモデル、俳優のトニー・ウォードが相手役としてビデオに出演している。ビデオに登場したダンサーの一部は、彼女のBlond Ambition Tourのダンサーでもあった。ビデオは「La Baie des Anges」のジャンヌ・モローへのオマージュでもあった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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