ジャコバン派
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ジャコバン協会、自由と平等の友
憲法の友の会
ジャコバン派Societe des Jacobins, Amis de la Liberte et de l’Egalite
Societe des Amis de la Constitution
Club des Jacobins
ジャコバンのシール
前身ブルトン・クラブ[1][2]
後継フイヤン派(1791年7月)[2]
ジロンド派(1792年秋)[1]
パンテオン・クラブ(1795年)[3]
自由と平等の友の会(1799年)[2][3]
設立1789年11月[2]
設立地 フランス王国 パリ サントノレ通り ジャコバン修道院(フランス語版)[2][4]
解散1794年11月11日[2]
種類政治結社[1][2][5]
院外クラブ[2]
政治党派[6]
本部ジャコバン修道院(フランス語版)[1][5][6]
貢献地域 フランス王国
フランス立憲王国
フランス第一共和政
組織的方法議事の事前討議(最初)[7]
恐怖政治による独裁(山岳派)[1]
民衆運動[4]
急進的改革[5]
会員数500,000名ほど(1793年、名目上)[3][8]
公用語フランス語
指導者マクシミリアン・ロベスピエール[6]
ジョルジュ・ダントン[6]
ジャン=ポール・マラー[6]
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ジャコバン派(ジャコバンは、フランス語: Jacobins[1][6], IPA: [?ak?b??][9]; Club des Jacobins[3][4][7][9]英語: Jacobins, Jacobin Club[3])とは、フランス革命期の政治結社である[2]。通称の由来はパリサントノレ通りのジャコバン修道院(フランス語版)[注釈 1][注釈 2]を本部としたことによるが[1]、正式名称は「憲法の友の会」[1](Societe des Amis de la Constitution[3][注釈 3]、「ジャコバン協会、自由と平等の友[注釈 4][4][7](Societe des Jacobins, Amis de la Liberte et de l’Egalite[3][注釈 5]である。

後述のように内容は時期によって異なるが、マクシミリアン・ロベスピエールが中心となって急進的な革命の推進を行った時期が有名。フランス革命を主導した主流で、恐怖政治で活躍し、テルミドールのクーデター以降、一転、没落の道をたどる。国民公会で左の席に座ったことから左翼の語源となり、恐怖政治(: La Terreur、: Reign of Terror)は、テロ、テロリズムの語源となった。
定義ジャコバン派が本拠地としたジャコバン修道院

元々は、ジャコバン・クラブというさまざまな思想を持つ人々が集まる政治クラブであった。この政治クラブはフランス全国に支部をもち、組織的に革命を推進した。しかし、革命を経るにつれて信念や政策によって分裂し、まず立憲君主派であるフイヤン派が、ついで穏健共和派であるジロンド派がこのクラブから脱退し、最終的に山岳派(Montagnards、モンタニャール、モンターニュ派とも)と呼ばれる急進共和派の集団がジャコバン・クラブに残り、主導権を握る(右図も参照のこと)。

そのため、まれに広義の意味としてジャコバン・クラブに属していた市民、または単に革命を支持する革命派を指してジャコバン派ということもあるが、一般的には後者の急進共和派(山岳派)を指して用いられる。実際、ラファイエットブリッソーなどのフイヤン派・ジロンド派の代表格も一時期ジャコバン・クラブに属していたが、彼らを指して「ジャコバン派である」と言うことは(紛らわしいため)まずない。ただしジロンド派がジャコバンの一部であるという考え自体は間違いではない。

一方で、急進共和派クラブであるコルドリエ・クラブ系の急進共和主義者たち(コルドリエ派)に対して用いる場合もある。この場合はクラブの違いを意識して区別されるだけであり、両者に立場的違いがはっきりあるわけではない。
経緯
設立ジャコバン・クラブの変遷

三部会の第三身分の議員のうち、ブルターニュ出身議員で構成されたブルトン・クラブが原型である。ヴェルサイユ行進ののち、ジャコバン修道院で集会が行われるようになり、ジャコバン・クラブと呼ばれるようになる。
ジャコバン派成立まで
立憲君主派(フイヤン派)の脱退

1790年の3?6月にかけて、ラファイエットやバイイら立憲君主派はジャコバン・クラブから脱退し、89年クラブを創設した。一方、ジャコバン・クラブ内では1791年6月の、ルイ16世一家の国外逃亡未遂(ヴァレンヌ事件)や7月のシャン・ド・マルスの虐殺を期に、国王の責任を追及する左派と、議会と国王を共存させようとする右派が対立した。

この時期、バルナーヴやデュポール、ラメット兄弟などの右派(つまり三頭派)がジャコバン・クラブから相次いで脱退。これに先の89年クラブが合流し、フイヤン・クラブ(フイヤン派)が創設された。この時点でジャコバン・クラブからは立憲君主派が消え、残ったのは、穏健・及び急進的共和派となった。
穏健共和派(ジロンド派)の脱退8月10日事件

1792年、他のヨーロッパ諸国との戦争の気運が高まる。それに対し、ジャコバン・クラブ内では、主戦派と反戦派との対立が始まる。この対立は、主戦派=穏健共和派(ジロンド派)、反戦派=急進共和派(ジャコバン派)という構図であったが、議会では主戦派のジロンド派が実権を握り、4月20日オーストリアに対し、宣戦を布告した。しかし、破産状態のフランスは戦備が整っておらず、兵士も未訓練で、革命の余波が軍隊に及んで指揮系統が機能しないフランス軍は敗戦を重ねる(またこのとき、王妃マリー・アントワネットがフランス軍の作戦を敵軍へ提供していたと言われている。)

プロシア軍が参戦するなどの情勢の変化や度重なる敗戦の中、拒否権を発動するルイ16世によって国政も停滞したため、反戦派の中心であったロベスピエールやダントンマラーが主導し、8月10日事件を機に王権の廃止を要求、実現させる。

やがて、国民公会と名のついた議会が召集される。この時点でジャコバン・クラブにはジロンド派・ジャコバン派両派閥の議員が混じって在籍していたが、ボルドークラブの人脈とブルジョワを支持基盤とするジロンド派と、民衆を支持基盤とする山岳派との対立が深刻になっており、ブリッソーを指導者とするジロンド派は、10月以降次々とジャコバン・クラブから脱退する。

こうしてジャコバン・クラブに残ったのは急進共和派だけとなり、ようやくジャコバン・クラブ=ジャコバン派と呼べる状況となる。また、急進共和派議員の多くは議会で議場後方の高い位置に陣取ったため、山岳派とも呼ばれた。
山岳派独裁
ジロンド派の追放

国王裁判でも対立したジロンド・ジャコバン両派であったが、国民投票執行猶予などにこだわったジロンド派に対して、ロベスピエールや、サン=ジュストといった山岳派の明確な主張が勝り、1793年1月21日、国王の処刑に至る。国外では全ヨーロッパを敵にし、国内では大衆の人気を失い、山岳派に圧倒され始めたジロンド派は、山岳派の主要人物の拘束を図るが、マラーやエベールに対して行われた裁判はいずれも無罪となり、法廷闘争でも敗北した。

エベール派やアンラジェを中心にしてコミューンが暴動(いわゆる五月蜂起)を煽るようになると、ジロンド派は攻撃の的を山岳派に絞るが5月26日にロベスピエールがジャコバン・クラブで行った演説によって失脚。5月31日?6月2日にかけて、機能不全となった政府に怒りを募らせた民衆の武装蜂起が起こり、ジロンド派は国民公会より武力で追放され、さらに逮捕・処刑された。ここに、ジャコバン派が主導する体制が確立する。
ジャコバン派内部での派閥闘争

やがて憲法は停止され、ロベスピエールも属した大公安委員会が革命の遂行のため、あらゆる権限を有するようになる。次第に彼らによる委員会独裁が始まり、内戦の激化によって反革命派の粛清といった必要から、非常手段としての恐怖政治を求める声がパリでは強くなっていく。しかし次第にそれが急進過激化すると多くの無関係の市民も処刑されるようにと変貌していった。

大胆な政策の実行や、反革命派の粛清により、一応の安定をみたフランス国内であったが、ジャコバン派内部で恐怖政治に対する見解の相違から、恐怖政治の緩和を求める寛容派(ダントン派・右派)と、恐怖政治をより強化するように求める矯激派(エベール派・左派)が山岳派と分裂する。


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