ジャクリーン・ケネディ
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ジャクリーン・リー・ブーヴィエ・ケネディ・オナシス
Jacqueline Lee Bouvier Kennedy Onassis
ホワイトハウス・レセプションルームで(1961年)
アメリカ合衆国のファーストレディ
任期1961年1月20日 - 1963年11月22日
先代マミー・アイゼンハワー
次代レディ・バード・ジョンソン
個人情報
生年月日 (1929-07-28) 1929年7月28日
出生地 アメリカ合衆国ニューヨーク州サウサンプトン
没年月日 (1994-05-19) 1994年5月19日(64歳没)
死没地 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市
配偶者ジョン・F・ケネディ(1953-1963)
アリストテレス・オナシス(1968-1975)
子女キャロライン・ブービェ・ケネディ
ジョン・F・ケネディ・ジュニア
パトリック・ブービェ・ケネディ
職業アメリカ合衆国大統領夫人、編集者
宗教カトリック教会
署名
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ジャクリーン・リー・ブーヴィエ・ケネディ・オナシス(Jacqueline Lee Bouvier Kennedy Onassis、1929年7月28日 - 1994年5月19日)は、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの夫人。1961年から1963年までアメリカファーストレディであった。身長5フィート8インチ(約173cm)[1]
概要

1961年1月20日にアメリカ大統領に就任したジョン・F・ケネディは43歳であり、ジャクリーンも31歳でファーストレディとなった。しかし、わずか2年10カ月で夫が暗殺されて彼女はホワイトハウスを去った。そして5年後の1968年秋にギリシャの大富豪アリストテレス・オナシスと再婚し世界を驚かせた。オナシスとの死別後、ジャクリーンはニューヨークに移って編集者としての人生を歩んだ。

彼女は単なる大統領夫人という枠を超えて、1960年代から1980年代にかけてファッションアイコンとして世界の女性の憧れとなった。特にケネディ大統領が撃たれた時に彼女が着ていたピンクのシャネルのスーツにピルボックス帽の組み合わせは時代を象徴するファッションとして人々の記憶に残っている。1994年に死去し、元の大統領夫人としてアーリントン国立墓地のジョン・F・ケネディの墓の横に埋葬された。
生涯
生い立ちと教育

1929年、ジャクリーン・リー・ブーヴィエはニューヨーク州ロングアイランドサフォーク郡サウサンプトン(英語版)で、父ジョン・ヴェルヌー・ブーヴィエ3世(John Vernou Bouvier III、1891年 - 1957年)と母ジャネット・リー・ブーヴィエ(Janet Lee Bouvier、1907年 - 1989年)の間に生まれた。夫妻の間にはジャクリーンとその妹であるキャロライン・リー・ブーヴィエ(1933年生まれ)の二人の子供がいた。フランス系の父ジョン・ブービエは株の仲買人で財産家、アイルランド系の母ジャネット・リーの実家も裕福だった[2]。しかし父ジョンは「ブラックジャック」とあだ名された道楽者で女性関係も派手だったため、1940年に夫妻は離婚し、母ジャネットはその後スタンダード・オイルの相続者で実業家ヒュー・ダドリー・オーチンクロス(Hugh D. Auchincloss)と再婚し、二人の子供(ジャネット(Janet Auchincloss Rutherfurd)とジェームズ(James Lee Auchincloss))をもうけた。

アイルランド系の母ジャネット[3]の家系には、ジャクリーンの曾祖父にあたる人物がアイルランドのコークからアメリカにやってきてニューヨーク市の公立学校の校長になった者がいた。父ジョン・ジャックにはフランス、スコットランド、イギリスの血が入っていた[4]6歳のジャクリーン(1935年)

ジャクリーンは母ジャネットの影響で幼いころから乗馬を好み、これを生涯の趣味とした[5]。また厳格な母からエチケットやマナーなど厳しく躾られ、母が社交好きであったので女性としての嗜みやファッションセンスを受け継いでいく[2]

学齢に達したジャクリーンは、ニューヨークのチャピン・スクール(Chapin school)を皮切りに、メリーランド州のベセスダにあるホルトン-アームズ校(Holton-Arms School、1942年 - 1944年)、コネチカット州ファーミントンのミス・ポーターズ・スクール(Miss Porter's School 、1944年 - 1947年)へと進んだ。さらにニューヨーク州ポキプシーのヴァッサー大学(Vassar College、1947年 - 1948年)に2年在籍した後でスミス大学の留学プログラムを利用してフランスに渡り、グルノーブル大学(University of Grenoble)とソルボンヌ大学(Sorbonne)に学んだ。1947年、ジャクリーンが17歳で社交界にデビューしたとき、コラムニストのイゴ・カッシーニ(Igor Cassini)は彼女がその年の「デビュタント・クイーン」(社交界デビューした女性の中のナンバーワン)であると書いた[6][注 1]。そして実際に彼女は「デピュタント・オブ・ジ・イヤー」に選出され、さらに「ヴォーグ」誌のエッセイ・コンテストに優勝して才色兼備ぶりを発揮し始める[2]。フランスから戻ったジャクリーンは、ジョージ・ワシントン大学の4年に編入しフランス文学を専攻して1951年に学位を取って卒業した。同年の夏、ジャクリーンは妹のリーと二人でヨーロッパ旅行を楽しんだ。

大学卒業後、ジャクリーンは継父オーチンクロスの知人アーサー・クロックから『ワシントン・タイムズ=ヘラルド』紙の職を紹介された[7]。編集長のフランク・ウォルドロップは、ジャクリーンをパートタイムの受付係として雇った[8]。しかし、入社から1週間で、もっとやりがいのある仕事がしたいとウォルドロップ編集長に申し出た。ウォルドロップはジャクリーンを地域面編集者のシドニー・エプスタインの下に付けた。エプスタインは、彼女の経験がまだ浅いにも関わらず、「街頭インタビュアー」として週給25ドルで採用した[9]。この仕事は、街に出て人を無作為に選んで、気の利いた質問をして写真を撮り、それを新聞に掲載するというものだった[10]。また、街頭インタビューだけでなく、大統領に当選した直後のリチャード・ニクソンの当時6歳の娘のトリシアなど、話題の人物にインタビューすることもあった[11]。その頃、ジャクリーンはジョン・ハステッド(John G. W. Husted Jr.)という若い株式仲買人と、わずか1か月の交際で婚約し、1952年1月に『ニューヨーク・タイムズ』紙の告知欄に掲載した[12]。しかし、その3か月後、ハステッドのことを「未熟でつまらない」と感じるようになり、婚約を解消した[13][14]
結婚

1952年5月、記者でありケネディ兄弟の友人だったチャールズ・バートレット(Charles L. Bartlett)家のパーティーで、ジャクリーンは当時下院議員でその年の秋の上院議員選挙を目指していたジョン・F・ケネディ(ジャック)と知り合った。


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