ジャガー・ルクルト
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Jaeger-LeCoultre
ジャガー・ルクルト種類
リシュモングループの一員
業種時計マニュファクチュール
設立アントワーヌ・ルクルトにより1833年に創業
本社ル・サンティエ(英語版)、ヴォー州スイス
主要人物カトリーヌ・レニエ(CEO
製品腕時計
親会社リシュモン 
ウェブサイト ⇒http://www.jaeger-lecoultre.com/JP/ja/luxury-watches/home-page-1
ジャガー・ルクルト レベルソジャガー・ルクルト トゥールビヨンムーブメントウォッチ

ジャガー・ルクルト(Jaeger-LeCoultre、フランス語発音: [j?g?? l?kult?]、[jay-ger luh-kool-tre])は、スイスのル・サンティエ(英語版)に拠点を置く1833年創業の高級時計マニュファクチュールである。これまでに数百の発明と1,000種類以上のキャリバー(英語版)を開発しており、そのなかには世界最小キャリバーや世界で最も複雑な腕時計、そして半永久的に動くタイムピースも含まれる。今日、ジャガー・ルクルトは、8つの時計コレクションを展開しており、海洋保護やモータースポーツポロなど、多様な分野で複数のパートナーシップを維持している。2000年より、スイスのラグジュアリーグループであるリシュモンの傘下にある[1]
歴史
ルクルト家ル・サンティエ村の教会

スイスにおけるルクルト家の最初の記録は、16世紀にさかのぼる。フランス人のユグノーだったピエール・ルクルト(1530年頃?1600年頃)が、宗教的な迫害を受けてフランスのリジー=シュール=ウルクからジュネーブへと逃れる。1558年に「住民」として認められたものの、その翌年になってようやくジュウ渓谷の土地を得る。時間とともに小さなコミュニティが形成されていき、1612年、ピエール・ルクルトの息子がその地に教会を建て、それがル・サンティエ(英語版)村の始まりとなった。今日、ジャガー・ルクルトのマニュファクチュールが建っているのはまさにこの場所である[2]
マニュファクチュールジャガー・ルクルトの工房近くにあるアントワーヌ・ルクルトの記念碑

1833年、アントワーヌ・ルクルト(1803-1881) がスチールから時計のカナを切り出す機械を発明[3]。これに伴い、アントワーヌは、ル・サンティエに時計製造の小さなアトリエを開き、高品質のタイムピースを製造するためのスキルを磨いていく[4]。1844年、アントワーヌは世界で最も正確な測定器、ミリオノメーターを発明し(#ミリオノメーターを参照)、1847年には、巻上げと時計のセッティングに鍵を必要としないシステムを開発する(#鍵なし(竜頭巻き)時計を参照)[4]。その4年後には、ロンドンで開かれた初の万国博覧会で、タイムピースの精度と機械化の実績が認められ、金メダルを授与される[4]

1866年、時計製造がまだ数百の小さな家内工房に依存していた頃[5]、アントワーヌと息子のエリー(1842-1917)は、ジュウ渓谷に初の本格的なマニュファクチュール、LeCoultre & Cie を創設し、時計製作に関わる数多くの技術を一つ屋根の下に集結した。1870年には、このマニュファクチュールの下で、複雑機構を備えたキャリバーの生産工程の一部に初めて機械化が導入される[6]

同じ年、マニュファクチュールで働く従業員は500人を数え、LeCoultre & Cie は「ジュウ渓谷のグランド・メゾン」として知られるようになる。1900年までに350種類以上のキャリバーが製造され、うち128種類はクロノグラフ機能を、99種類はリピーター機構を搭載。1902年以降30年間にわたり、LeCoultre & Cie は、ジュネーブのパテック・フィリップ向けムーブメントの大半を製造していた。
ジャガー・ルクルト

1903年、パリに拠点を置きフランス海軍向けの時計を製造していたエドモンド・ジャガーが、スイスの複数の時計職人に対し、自らが発明した超薄型キャリバーを開発・製造してほしいと注文をつける[4]

アントワーヌ・ルクルトの孫にあたり、LeCoultre & Cie の製造責任者だったジャック・ダヴィド・ルクルトは、この課題に挑み、超薄型懐中時計のコレクションを製作。1907年には、ルクルト製キャリバー145を搭載した世界で最も薄い懐中時計を製作する(#ルクルト製キャリバー145を参照)[4]同年、ジャガーは顧客であったフランスの宝石商カルティエと、今後15年間、すべてのジャガーのムーブメントをカルティエ専用とする契約を締結し、そのムーブメントはルクルトで製造された[4]

こうしたジャガーとルクルトの協力関係により、1937年、ジャガー・ルクルト ブランドが正式に誕生する。ただし、1932年から1985年頃まで、北米ではルクルトの名で腕時計が販売され、その後、世界的にジャガー・ルクルトの名に統一された。会社の記録によると、アメリカのルクルト製腕時計に使用された最後のムーブメントは、1976年にル・サンティエから出荷されている。

一部のコレクターや誤解したディーラーの間では、アメリカのルクルトはスイスのジャガー・ルクルトと無関係であるという間違った主張がされていた。この誤解は1950年代にさかのぼり、北米でルクルトの腕時計を販売していたロンジン-ウィットナーグループはヴァシュロン・コンスタンタンの販売も請け負っていたのだが、コレクターがこの流通ルートと時計メーカーを混同したことが原因と思われる。ジャガー・ルクルトの愛好家であるザフ・バシャによると、高級市場向けのミステリーダイヤル ダイヤモンド ウォッチ「ギャラクシー」は、ヴァシュロン・コンスタンタンとアメリカ市場向けルクルトの共同作品で、前面に「ルクルト」の刻印、ケースには「ヴァシュロン・コンスタンタン - ルクルト」の刻印が刻まれている。ルクルトの商標は1985年に終了し、その後、ジャガー・ルクルトの商標に替わった[7]タルボ・105に取り付けられたジャガー社製のスピードメーター

なおスイスのルクルトとフランスのジャガーは、1921年にイギリスで会社Ed. Jaeger (London) Limitedを設立し、高級車向けの計器類の製造を開始している。1927年、ジャガー・ルクルトは会社の75パーセントをSmith & Sons社に売却し、1937年に社名をBritish Jaeger Instruments Limitedに変更した。この会社は戦後に入ってもしばらく自動車の計器類を製造しており、その中にはフェラーリなどのレーシングカーブランドの計器類も含まれていた。
発明

ジャガー・ルクルトは、創業以降、1,242種類以上のキャリバーを製造し、約400件の特許を取得、数百の発明を成している。
ミリオノメーター

1844年にアントワーヌ・ルクルトが発明したミリオノメーターは、ミクロン単位を測定できる史上初の計器で、これにより正確な時計部品の製造が可能となった。当時スイスにはこのようなシステムは存在しなかったため、これに関する特許は取得されなかったが、その独自の構図は50年以上社内で厳重に保管され、使用されている。ミリオノメーターは、1900年のパリ万国博覧会 で発表された[8][8]
鍵なし(竜頭巻き)時計

1847年、アントワーヌが鍵の要らない竜頭巻きの時計を発明。これは、時計の巻上げとセッティングを鍵なしで行えるという、簡単で信頼度の高い最初のシステムとなった[8]。時計の機能を切り替えるレバーの作動には、鍵の代わりに小さな押しボタンが使用されている[4]。他の時計メーカーでもこのシステムを迅速に導入できるよう、ジャガー・ルクルトはこのシステムの特許を取得していない[8]
ルクルト製キャリバー145

1907年、ルクルト製キャリバー145が厚さ1.38mmという世界で最も薄いムーブメントの記録を樹立。今なお、懐中時計用ムーブメントとして最も薄い記録を保持している[8][9]
グランド・コンプリケーション


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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