ジャカルタ
Jakarta
首都特別州
ジャカルタ首都特別州
Daerah Khusus Ibukota Jakarta
左上から: 旧バタヴィア市庁舎、ホテル・インドネシア・ラウンドアバウト、ジャカルタ遠景、ゲロラ・ブン・カルノ・スタジアム、TMII
旗
印章
標語: Jaya Raya
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}ジャカルタジャワ島の地図を表示ジャカルタインドネシアの地図を表示ジャカルタ東南アジアの地図を表示
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}南緯6度12分 東経106度48分 / 南緯6.200度 東経106.800度 / -6.200; 106.800座標: 南緯6度12分 東経106度48分 / 南緯6.200度 東経106.800度 / -6.200; 106.800
国 インドネシア
政府
? 種別州(首都特別州)
? 知事代行ヘル・ブディ・ハルトノ(インドネシア語版)
面積
? 首都特別州740.28 km2
? 陸地662.3 km2
? 水域6,977.5 km2 1.12%
? 都市圏7,062.5 km2
標高7 m
人口(2020)[1]10,562,088人
? 密度16,262人/km2
? 都市圏33,430,285人
? 都市圏密度4,733人/km2
住民
? 民族ジャワ人 (35%)、ベタウィ人(英語版) (28%)、
スンダ人 (15%)、華人 (6%)、
バタック族 (4%)、ミナンカバウ族 (3%)
? 宗教イスラム教 (86%)、
プロテスタント (6%)、カトリック (4%)、
仏教 (4%)、ヒンドゥー教、儒教
? 言語インドネシア語、ブタウィ語、
ジャワ語、スンダ語
等時帯UTC+7 (WIB)
市外局番+62 21
ISO 3166コードID-JK
ウェブサイトjakarta.go.id
ジャカルタ首都特別州(ジャカルタしゅととくべつしゅう、インドネシア語: Daerah Khusus Ibukota Jakarta)、通称ジャカルタ(尼: Jakarta、インドネシア語発音: [d?a?karta] ( 音声ファイル))は、インドネシアの首都であり同国最大の都市[注釈 1][注釈 2]。ジャワ島にある。
人口は950万人を超えており、2016年の近郊を含む都市圏人口は3,120万人と、東京都市圏に次いで世界第2位[2]。世界屈指のメガシティであり、東南アジア有数の世界都市でもある。東南アジア諸国連合 (ASEAN) の事務局が置かれる[3]。 古くはスンダクラパ(スンダ語: Sunda Kelapa, (スンダのココナッツ), 397年 - 1527年)と呼ばれていた。1527年にファタヒラー
名称
1619年にオランダ東インド会社がこの地を制圧し、バタヴィア(蘭: Batavia, バタヴィの土地, 1619年 - 1942年)に改めた。
第二次世界大戦中の1942年に日本がこの地を制圧し、ジャカルタ(尼: Djakarta, 1942年 - 1972年)に改められ、1950年のインドネシア共和国成立後もこの名称が使用された。また、1972年に綴りがインドネシア語正書法のJakartaに改められた。
ジャガタラ (Jacatra) とも呼ばれ、オランダとの交易を持った日本では、江戸時代以降この名が定着し(ジャガイモもこの名に由来する)、ジャカルタという都市よりジャワ島全体を指す呼称として用いられた。
ジャカルタの名称は、サンスクリットの(ジャヤ, [栄光・勝利])+???(カルタ, 達成・獲得)の二つの単語から作られた合成語が起源である。
「ジャカルタ首都特別州」は外務省の呼び名で、同市と姉妹都市関係を結ぶ東京都ではジャカルタ特別市と呼んでいる(英語正式表記もSpecial Capital Region of Jakarta)[4]。 ジャカルタはもともと、16世紀初めまで、西ジャワのパジャジャラン王国の港町、スンダ・クラパとして発展した。14世紀に成立した中国・明朝のもとでインドネシアの海域は册封体制下におかれ、アジア域内における交易ネットワークに組み込まれていた。スンダ・クラパもまた、この海域の他の港市とともに、中国との朝貢貿易や私貿易、中継貿易で重要な港町として発展した。 スンダ・クラパをジャヤカルタ (Djajakarta) と改名したのは、1527年にこの地を征服したバンテン王国のスルタン、ファタフィラである。
歴史
オランダ以前
バタヴィア市の成立バタヴィア城(1656 - 58年頃、画: Andries Beeckman.)バタヴィア市庁舎、現在はジャカルタ歴史博物館
16世紀末に、この海域でのポルトガルの香辛料独占に対抗するため進出してきたオランダは、西ジャワの王族の内紛に介入し、その一方に軍事援助を行う見返りとして、ジャヤカルタを手に入れた。1619年、オランダ東インド会社総督、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンがジャヤカルタに要塞を建設し、この地をオランダの先住民バタウィにちなんで、バタヴィアと改称した。その後、オランダ東インド会社の基地として、さらに後にはオランダ領東インド国家の中心都市として発展していくことになった[5]。1629年には東隣の中部ジャワを統べる大国であったマタラム王国のスルタン・アグンが侵攻して来たものの、クーンが築いた城壁によって撃退に成功し、これがジャカルタ市拡大の契機となった。チリウン川は直線に流路を改修され、それまでチリウン川東岸に限られていた城壁が拡張されて西岸にも達し、川を市街の中心として両岸に市街地が広がるようになった。また、街の周囲には運河兼用の掘割が張り巡らされ、石やレンガ造りのオランダ風の建物が立ち並び、当初「東洋の真珠」と呼ばれる美しい町並みとなったが、この町並みはジャワの気候とは必ずしもあっていなかった上に、城壁内の風通しが悪かったことや周囲の水質悪化によって死亡率が非常に高くなり、やがて「東洋の墓場」とも呼ばれるようになった。また、このころにはジャワ人やアンボン人、スンダ人など、オランダ領東インド各地からバタヴィアへやってきた人々の混血が進み、ベタウィ人(英語版)と呼ばれる新しい民族集団が誕生した。
ウェルトフレーデンの開発