ジャイ・シング2世
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ジャイ・シング2世
Jai Singh II
アンベール王

在位1699年 - 1743年
戴冠1699年12月31日
別号マハーラージャ

出生1688年12月3日
アンベール
死去1743年9月21日
ジャイプル
子女イーシュヴァリー・シング
マードー・シング
王朝カチワーハー朝
父親ビシャン・シング
宗教ヒンドゥー教
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ジャイ・シング2世(Jai Singh II, 1688年12月3日 - 1743年9月21日)は、北インドラージャスターン地方アンベール王国(ジャイプル王国)の君主(在位:1699年 - 1743年)。ムガル帝国の政治家・武将でもある。サワーイー・ジャイ・シング(Sawai Jai Singh)とも呼ばれる。

彼は18世紀におけるもっとも際立ったラージプートの王であり、また優れた政治家、立法者、改革者、科学者でもあった[1]1727年に王国の首都をアンベールからジャイプルへと遷都し、そこに展望台なども建築したことでもよく知られている[2]
目次

1 生涯

2 科学者として

3 改革者として

4 脚注

5 参考文献

6 関連項目

生涯 ジャイ・シング2世

1688年12月3日アンベール王国の君主ビシャン・シングの息子として生まれた[3][4]

1699年12月31日、父のアンベール王ビシャン・シングが死亡し、ジャイ・シングがジャイ・シング2世とした王位を継承した[5][6]

ジャイ・シング2世は即位後、マラーター王国と戦うためにデカン戦争に参加し、1701年8月3日にはブルハーンプルに到着した。だが、そこで雨期に直面し、行軍できなくなった[7]

1702年、ジャイ・シング2世はケールナーの包囲に尽力したことを報いられ、「サワーイー」(4分の1)の称号を与えられた。

1704年、ジャイ・シング2世は皇帝アウラングゼーブの孫ビーダール・バフトの代理として、マールワー地方の統治を委ねられた。だが、アウラングゼーブによってこの決定は取り消された。

1707年3月、アウラングゼーブが死亡すると、ジャイ・シング2世はさまざまな問題に巻き込まれた。彼の支持者ビーダール・バフトとその父アーザム・シャーが対立候補のバハードゥル・シャー1世に殺害されたのである。

バハードゥル・シャー1世はアンベール王国に対する支配を強化しようとし、ジャイ・シング2世に代えて弟のヴィジャイ・シングを君主の座に据えようとさえした[8]。ジャイ・シング2世はこれに対し、マールワール王国メーワール王国と同盟を結んで対抗し、帝国の勢力をラージャスターンから放逐した。のち、ジャイ・シング2世はバハードゥル・シャー1世と講和したが、要求した太守職は認められなかった[9]

1712年、バハードゥル・シャー1世の死後、息子のジャハーンダール・シャーが即位すると、宰相ズルフィカール・ハーンはヒンドゥー教徒を懐柔しようとした[10]。そのため、ジャイ・シング2世はアーグラとマールワーの太守に任命された[11][12]。また、このとき「ミールザー・ラージャ・サワーイー」の称号も授けられた[13]

ジャイ・シング2世はアーグラにおいて、伸長するジャート勢力との紛争に巻き込まれた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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