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Giant Baba
PWF世界ヘビー級王者時代(1982年9月)
プロフィール
リングネームジャイアント馬場
馬場 正平
ショーヘイ・ビッグ・ババ
ババ・ザ・ジャイアント
本名馬場 正平
ニックネーム世界の巨人
王道
世界の巨砲
東洋の巨人
御大
王者の魂
東洋の悪魔
身長209cm
体重145 kg(全盛期)
誕生日 (1938-01-23) 1938年1月23日
死亡日 (1999-01-31) 1999年1月31日(61歳没)
出身地 日本・新潟県三条市
スポーツ歴野球
トレーナー力道山
グレート東郷
フレッド・アトキンス
デビュー1960年9月30日
引退1998年12月5日
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馬場 正平1955年撮影
基本情報
国籍 日本
出身地新潟県三条市
生年月日 (1938-01-23) 1938年1月23日
没年月日 (1999-01-31) 1999年1月31日(61歳没)
身長
体重200 cm
90 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1955年
初出場1957年8月25日
最終出場1957年10月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
新潟県立三条実業高等学校(中退)
読売ジャイアンツ(1955 - 1959)
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ジャイアント馬場(ジャイアントばば、1938年〈昭和13年〉1月23日 - 1999年〈平成11年〉1月31日)は、日本のプロレスラー、タレント、元プロ野球選手。本名および旧リングネーム・プロ野球選手時代の登録名は馬場正平(ばば しょうへい)。 日本のプロレス界の史上最大の長身と巨体を持ち、力道山・アントニオ猪木と並んで日本のプロレスそのものを代表する存在である。コマーシャルやテレビ番組などでも人気を博した[注釈 1]。現役時代は、当時の世界最高峰の王座であるNWA世界ヘビー級王座に3度就いた。全日本プロ・レスリング代表取締役社長・会長、NWA第一副会長を歴任した。三条市名誉市民。 リングネームは、初渡米武者修行中の1961年、ニューヨークのプロモーターであったビンス・マクマホン・シニアがババ・ザ・ジャイアント(Baba the Giant)と命名したことに由来する。新聞のラテ欄では文字数の制約から「G馬場」と表記されることがある。身長209cm[注釈 2]、体重135kg[注釈 3]。血液型O型。 1938年1月23日(日曜日)、新潟県三条市に八百屋を営む父・馬場一雄、母・ミツの間に次男として生まれる。四日町国民学校(卒業時には三条市立四日町小学校)に入学後、野球を始める。入学までは体格は小さいほうで、入学時の集合写真でも一番小さい児童のグループに収まっていたが、3年生頃から急速に大きくなりはじめ、4・5年生の頃には既に身長が175cmほどあり[1]、地元の少年野球団「若鮎クラブ」ではエースを務めた。三条市立第一中学校時代には中越地区大会で優勝している。 1953年、三条実業高校機械科(三条実業高校は1963年に商業科が三条商業高校に、機械科が三条工業高校となった後、現在は新潟県央工業高校)入学後、身長はさらに伸び、190cmにもなっていた[1]。この頃は足も尋常でない大きさになり、自分に合うスパイクがないという理由で、当初は硬式野球部入部を断念し、一旦、美術部に入部した。その後、特注のスパイクを与えられ、念願の硬式野球部に入部。練習試合で18奪三振を記録するなどエースとしての活躍はめざましく、1954年、高校2年のときには新潟日報で「巨漢馬場投手を擁する三条実業高校」と報じられ優勝候補の一角と目される存在になっていたが、予選であえなく敗退し甲子園出場は叶わなかった。 この頃、バッテリーを組んでいた捕手の誘いでプロ野球球団・トンボユニオンズの入団テストを受ける話が進んでいたが、読売ジャイアンツのスカウト・源川英治に誘われ、高校を2年次で中退し、10月13日巨人に投手として入団する。背番号は59。同期入団に巨人のV9時代を支えた主力選手となる森祇晶、国松彰などがいた。なお、身長200cmに達する日本人プロ野球選手は2021年に秋広優人・阿部剣友が巨人軍入りするまでは馬場が唯一であった。 馬場自身は新潟県第1号のプロ野球選手と誤認していた[注釈 4]。監督水原茂の「若手は二軍でスタートし、基礎作り」という方針のため、二軍での基礎練習を行っていたが、2年目となる1956年には二軍で12勝1敗、翌1957年に13勝2敗の成績を収め、2年連続二軍の最優秀投手賞を受賞した[2]。 1956年末、視力の急激な低下に見舞われる。診察の結果、「脳腫瘍」(下垂体腺腫により視神経圧迫)と判断され[2]、同年12月22日に東京大学医学部附属病院で開頭手術を受けた[3]。当時の技術では成功率が非常に低く、医師から「失明する可能性が高いので、目が見えているうちにマッサージ師の勉強をしておきなさい」と勧められたほどだったが、手術は無事成功。1週間で退院し、翌月には頭に包帯を巻いたままキャンプに復帰した。
概要
生涯
生い立ち幼少の馬場とその家族(1943年より前)
プロ野球選手時代