ジム・ラヴェル
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ジム・ラヴェル

NASA所属宇宙飛行士
国籍 アメリカ合衆国
現況引退
生誕James Arthur Lovell Jr.
(1928-03-25) 1928年3月25日(96歳)
アメリカ合衆国 オハイオ州クリーブランド
他の職業テストパイロット
階級アメリカ海軍大佐
宇宙滞在期間29日19時間03分
選抜試験1962年 NASA Group 2
ミッションジェミニ7号
ジェミニ12号
アポロ8号
アポロ13号
記章
退役1973年3月1日
兵役経験
部門アメリカ海軍
軍歴1946年 - 1973年
最終階級 大佐

ジェームズ・アーサー・ラヴェル・ジュニア(James Arthur Lovell Jr. (/?l?v?l/)、1928年3月25日 - )は、アメリカ合衆国の元宇宙飛行士海軍飛行士、機械技師。1968年アポロ8号司令船操縦士として、人類初の月周回飛行に成功した3人のうちの1人となった。その後、1970年アポロ13号に船長として搭乗し、途中で重大な故障が発生したものの、月を一周して地球に帰還した。

ラヴェルは、1965年ジェミニ7号1966年ジェミニ12号にも参加している。4回も宇宙飛行を行ったのはラヴェルが史上初である。また、月への飛行を2度行ったのも初である。
若年期

1928年にオハイオ州クリーブランドで生まれた。父はカナダ・オンタリオ州生まれで石炭炉のセールスマンだった父ジェームズ・ラヴェル・シニア、母はチェコ系のブランシェ(Blanche)(旧姓マセック(Masek))[1]だった。父は1933年に交通事故で死亡した[2]。2人の間の子供はラヴェル1人であった。

ラヴェルと母親はインディアナ州テレホートにある親戚の家に約2年間住んでいた。その後、母と一緒にウィスコンシン州ミルウォーキーに移り住み、ジュノー高校を卒業した。幼少期はボーイスカウトに所属し、最終的にボーイスカウトの最高位であるイーグルスカウト(英語版)を達成した[3][4]

少年時代のラヴェルは、ロケットに興味を持ち、ロケットの模型を作って飛ばしていた[5]。高校卒業後はウィスコンシン大学マディソン校に入学し、1946年から1948年までの2年間、同校の海軍飛行士訓練プログラム(Flying Midshipman)に参加した[6][7]。マディソン大学ではフットボールをプレーし、フラタニティ組織アルファ・ファイ・オメガ(英語版)に入会した[8]

ラヴェルが飛行士訓練に参加していた1948年の夏、アメリカ海軍はプログラムの削減を始めており、士官候補生たちは他校に転校するよう圧力を受けていた。そのままでは、海軍飛行士として卒業しても、飛行士の職に就けない可能性があった。ラヴェルは、1948年秋に海軍兵学校に出願し、合格した。海軍兵学校1年生の時、液体燃料ロケットエンジンに関する論文を書いた。海軍兵学校で4年間を過ごし、1952年春に少尉として卒業し、学士の学位を取得した。その後、1952年10月から1954年2月までペンサコーラ海軍航空基地(英語版)で飛行訓練を受けた[8]
アメリカ海軍でのキャリア

ラヴェルは1954年2月1日に海軍航空士官に任命された。操縦訓練を終えると、カリフォルニア州サンフランシスコ近郊のモフェット連邦飛行場(英語版)にある第3混成飛行隊(VC-3)に配属された。1954年から1956年にかけては、艦上夜間戦闘機F2H-3バンシーを操縦した。これには、空母「シャングリラ」での西太平洋での任務も含まれていた。シャングリラは、アメリカ海軍の空母としては2番目のアングルド・デッキを持つ空母として改装されていた。

陸上勤務に戻ると、艦上ジェット戦闘機F3Hデーモンのパイロット移行訓練を担当するようになった[9]。1958年1月、メリーランド州パタクセント・リバー海軍航空基地にある海軍テストパイロット学校で6か月間のテストパイロット訓練コースに参加した。同級生にはピート・コンラッドウォルター・シラーがいた。ラヴェルはこのクラスを首席で卒業した[10]

同年末、マーキュリー計画宇宙飛行士候補としてアメリカ軍のテストパイロットの中から選ばれた110人の中に、ラヴェル、コンラッド、シラーの3人がいた。シラーはマーキュリー・セブンの1人となったが、ラヴェルとコンラッドは健康上の理由で選抜から漏れた。ラヴェルが落選したのは、血液中のビリルビンの値が一時的に高かったためである[11]

1961年、南カリフォルニア大学(USC)の航空安全学校を修了した[12]

パタクセント・リバー海軍航空基地では、電子機器の試験(後に武器の試験)に配属された。ラヴェルに割り当てられたコールサインは「シェイキー」(Shaky)で、これはコンラッドが名付けたものだった[13]

ラヴェルはF4Hのプログラム・マネージャーになり、ジョン・ヤングがその下で働いていた。1961年、第101戦闘飛行隊(VF-101)A分遣隊(デタッチメント・アルファ)の飛行教官および安全技術担当者としての任務を受けた[12]
NASAでのキャリア

1962年、NASAはジェミニ計画アポロ計画のために新たな宇宙飛行士を必要としていた。ラヴェルは2度目の応募で、コンラッドとともにNASA宇宙飛行士グループ2「ニューナイン」に合格した[14][15]
ジェミニ計画
ジェミニ7号ジェミニ12号での帰還後、回収船のデッキに立つバズ・オルドリンとラヴェル

ラヴェルはジェミニ4号の予備搭乗員に選ばれた。その後、1965年12月にフランク・ボーマンとともにジェミニ7号のパイロットを務めた。このフライトの目的は、14日間の軌道上での活動がクルーと宇宙船に与える影響を評価することだった[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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