ジム・パーマー
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ジム・パーマー
Jim Palmer
1972年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ニューヨーク州ニューヨーク
生年月日 (1945-10-15) 1945年10月15日(78歳)
身長
体重6' 3" =約190.5 cm
196 lb =約88.9 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1963年
初出場1965年4月17日
最終出場1984年5月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


スコッツデール高等学校(英語版)

アリゾナ州立大学

ボルチモア・オリオールズ (1965 - 1984)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1990年
得票率92.57%
選出方法BBWAA[:en]選出
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ジェームズ・アルビン・パーマー(James Alvin Palmer, 1945年10月15日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク出身の元プロ野球選手投手)。愛称は「Cakes」。右投右打。
経歴
現役時代

1963年8月16日にボルチモア・オリオールズと契約。1964年はA級で11勝3敗、防御率2.51を記録するが、129イニングで130四球も与えていた。ちなみにこのファームチームでプレーした時の監督がカル・リプケン・シニアで、その時に後に選手生活の晩年でチームメイトになる幼少時のカル・ジュニアと交友があったという。1965年に19歳で開幕メジャー入りを果たし、4月17日のボストン・レッドソックス戦でメジャーデビュー。主にリリーフでの起用で5勝を記録。

1966年は開幕から先発に定着し、15勝10敗、防御率3.46を記録してチームのボルチモア移転後初のリーグ優勝に貢献。ロサンゼルス・ドジャースとのワールドシリーズでは第2戦に先発してこの試合が現役最後の登板となったサンディ・コーファックスと投げ合い、4安打完封勝利。勢いに乗ったチームは続く第3戦・第4戦を共に1-0で勝利し、4連勝で球団史上初のワールドチャンピオンに輝いた。

1967年は5月12日のニューヨーク・ヤンキース戦でホワイティー・フォードと投げ合い、6回までパーフェクトに抑える。7回無死から安打を許すが次打者を併設に打ち取り、1安打無四死球・残塁0の「準完全試合」を記録[1]。しかしその後は肩の故障に苦しんで9試合の登板に留まり、1968年はメジャーでの登板なしに終わる。

4球団が拡張され東西2地区制となった1969年は回復して復帰。途中1ヶ月以上の離脱もあったが、8月13日のオークランド・アスレチックス戦で6四球を与えながらノーヒッターを達成するなど11連勝を記録し、16勝4敗・防御率2.34・6完封と復活を果たす。チームは2位に19ゲームの大差を付けて地区優勝。ミネソタ・ツインズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発し、10安打を浴びるものの2失点完投勝利を挙げ、チームを3年ぶりのリーグ優勝に導く。ニューヨーク・メッツとのワールドシリーズでは第3戦に先発したが6回4失点で敗戦投手となり、チームも1勝4敗で敗退した。

1970年は前半戦で12勝を挙げ、オールスターに初選出され先発投手を務めた。20勝10敗、防御率2.71、共にリーグトップの305.0イニング・5完封を記録し、チームは地区連覇。ツインズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発し、12奪三振1失点完投勝利で2年連続の胴上げ投手となる。シンシナティ・レッズとのワールドシリーズでは第1戦に先発して勝利投手となり、チームは4勝1敗で4年ぶりのワールドチャンピオンとなった。サイ・ヤング賞の投票では5位に入った。1971年は開幕から5連勝するなど20勝9敗・防御率2.68を記録し、チームメイトのデーブ・マクナリー(21勝)、マイク・クェイヤーパット・ドブソン(各20勝)と共に1920年シカゴ・ホワイトソックス以来となる「20勝カルテット」を形成し、チームは地区3連覇。アスレティックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発してレジー・ジャクソンに2本塁打を浴びるが、3失点完投勝利で3年連続の胴上げ投手。ピッツバーグ・パイレーツとのワールドシリーズでは第2戦に先発し勝利投手となるが、第6戦では9回2失点の好投も勝敗付かず。チームは3勝4敗で敗退した。

1972年は前半戦で8連勝を含む13勝、防御率1.91を記録し、オールスターでは2度目の先発投手を務めた。21勝10敗・防御率2.07を記録するが、チームは地区3位に終わった。1973年は7月27日のクリーブランド・インディアンス戦で7回まで無安打に抑え、8回に安打を打たれるが1安打完封勝利[2]。10連勝を含む22勝9敗・防御率2.40の成績で最優秀防御率のタイトルを獲得し、チームの2年ぶりの地区優勝に貢献。アスレティックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発し、5安打12奪三振完封勝利。第4戦では2回途中で降板。第5戦では4回途中からリリーフ登板し無失点に抑えるが、チームは完封負けで敗退した。サイ・ヤング賞の投票では、383奪三振のメジャー記録を樹立したノーラン・ライアンを抑えて初受賞し、MVPの投票でもジャクソンに次ぐ2位に入った[3]

1974年は初の開幕投手を務めるが、途中7連敗を喫するなど不調。6月から約2ヶ月離脱もあり7勝12敗と不本意な成績に終わるが、チームは地区連覇。3度目の対戦となったアスレティックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発し1失点完投と好投するが、打線がヴァイダ・ブルーに2安打で完封されて敗戦投手となり、チームは1勝3敗で敗退した。1975年は復活を果たし、いずれもリーグトップの23勝(11敗)、防御率2.09、10完封を記録し、キャットフィッシュ・ハンターと並んで初の最多勝利、2年ぶりの最優秀防御率を獲得。2年ぶりのサイ・ヤング賞を受賞した。1976年は22勝13敗・防御率2.51、リーグ最多の315.0イニングの成績で2年連続の最多勝利・サイ・ヤング賞、初のゴールドグラブ賞を獲得。1977年オールスターゲームで3度目の先発投手を務める。20勝11敗、防御率2.91、リーグ最多の22完投・319.0イニングの成績で、デニス・レナードら2人と並んで3年連続の最多勝利。

1978年5月20日から4完封を含む7連勝。


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