ジム・ソープ
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ジム・ソープ
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地インディアン準州プレーグ
生年月日1888年5月28日
没年月日 (1953-03-28) 1953年3月28日(64歳没)
大学カーライルインディアン工業学校
陸上

獲得メダル

アメリカ合衆国
陸上競技
オリンピック
1912五種競技
金1912十種競技


野球
身長6' 1" =約185.4
体重185 lb =約83.9
利き腕右
打席右
守備位置外野手
プロ入り年度1909年
初出場1913年4月14日
最終出場1919年9月25日
年俸5000$(1913年)
経歴


ニューヨーク・ジャイアンツ (1913 - 1915,1917)

シンシナティ・レッズ (1917)

ニューヨーク・ジャイアンツ (1918 - 1919)

ボストン・ブレーブス (1919)

アメリカンフットボール
身長6' 1" =約185.4
体重202 lb =約91.6
ポジションランニングバック
パンター
キッカー
初出場年1920年
所属チーム


カントン・ブルドッグス (1920,1926)

クリーブランド・インディアンス (APFA) (1921)

オオラング・インディアンズ (1922 - 1923)

ロックアイランド・インディペンデンツ (1924 - 1925)

ニューヨーク・ジャイアンツ (1925)

シカゴ・カージナルス (1928)

通算成績
出場試合数52試合
タッチダウン6
FG4回
ExtraPt3回
受賞歴・記録


オールプロ選出1回:(1923年)
NFL1920年代オールディケイドチーム

NFL殿堂入り
カレッジフットボール殿堂入り

ジム・ソープ(Jacobus Franciscus "Jim" Thorpe, 1888年5月28日[1] - 1953年3月28日)は、陸上競技野球アメリカンフットボールなどで幅広く活躍した元祖マルチアスリートサック&フォックス族インディアンであり、部族員としての名は「輝ける道」を意味するワ・サ・ハク(Wa-Tho-Huk)という[2]
経歴
生い立ち

ソープの生年月日、本名、民族的背景についての情報は広範囲に渡っている[3]。彼の生まれたインディアン居留地では出生証明が見つからなかった。公式にはインディアン準州(現オクラホマ州)プレーグ[4] 近郊で双子の弟とともに1888年5月28日に生まれたとされた[1]。カトリック教会で彼は「ジェイコブ=フランシス・ソープ」、弟はチャーリーと名付けられた[2]

ソープの両親はともに混血でカトリック教徒であった。父親はアイルランド移民の父とサック&フォックス族の母を持ち、母親はフランス移民の父とポタワトミ族の母を持つ。

ソープはサック&フォックス族のWa-Tho-Huk(「雷の偉大な光に照らされた道」、あるいはもっと簡単に「輝ける道」)として成長した[3]。ソープは弟チャーリーとともにオクラホマ州ストラウドにあるサック&フォックス族学校に通ったが、9歳の時チャーリーは肺炎で死亡し[2]、その後ソープは何度か学校を逃げ出した。

父親は彼を再び逃げ出さないようにカンザス州ローレンスのハスケルインディアン大学(en:Haskell Indian Nations University)に送った[5]

2年後に母が出産の際の合併症で死亡し、失意のソープは父と何度か言い争った後馬牧場で働くために家を出た[5]

1904年、ソープは父に連れ戻され、ペンシルベニア州カーライルのカーライルインディアン工業学校(Carlisle Indian Industrial School)に通うことになった[6]。ここで彼の優れた運動能力が見出され、黎明期のアメリカンフットボールで最も偉大な指導者の一人グレン=スコビー"ポップ"・ワーナー(Glenn Scobey Warner)の指導を受けた[5]。しかしその年、ソープの父は狩猟中の負傷から壊疽に掛かり、死亡してしまった。このためソープは学校を辞めて農場で働き、数年後カーライルインディアン工業学校に復学した[5]
アマチュアのキャリア
大学時代ジム・ソープ(1912年)

ソープは1907年にカーライルで陸上競技選手としてのキャリアをスタートさせたと伝えられている。普段着のまま走り高跳びで5フィート9インチ(約175センチメートル)を飛んで見せた[7]。彼は試みたスポーツすべてで素質を示し、1912年には社交ダンスの大学選手権で優勝した[8]

当初彼は身長5フィート、体重は100ポンドに満たなかった。2年後に身長6フィート、体重180ポンドまで身体を成長させた。ポップ・ワーナーはソープのような優れた陸上競技選手にフットボールのような肉体的な競技をさせることを躊躇っていた[9]。しかしながら、ソープは、自身を学校チームのディフェンスと対戦させるようにワーナーに申し出た。ワーナーはソープが簡単にタックルを受けて、あきらめるだろうと考えた[9]。ソープは縦横無尽に走り回り、一度ならず二度もディフェンスを振り切った。ソープはワーナーに歩み寄り、ボールを弾きながら「誰もジムにタックル出来なかった」と言った[9]。1907年当初アルバート・ペインが先発ハーフバックであり彼は控えだったがペインが負傷したため彼は出番を与えられるようになった[6][10]ペンシルベニア州立大学戦で出番を与えられた彼は2プレイ目で75ヤードのタッチダウンをあげさらに2タッチダウンをあげる活躍を見せた[6]。彼はランナーとしてだけでなくブロッカー、タックラー、キッカーとしても実力を発揮した[6]

1908年に彼はオールアメリカンのサードチームに選ばれた[6]。この時代彼は陸上競技でも走高跳で6フィート5インチ、走幅跳で23フィート6インチ、砲丸投で47フィート9インチ、やり投で138ヤード、棒高跳びで10フィート8インチ、100ヤード走で10秒、120ヤードハードルで15秒、440ヤード走で51秒の成績を残した[6]

1911年、この年彼の体は6フィート1インチ、190ポンドまで成長していた。開幕戦でわずか17分の間に3タッチダウン、2エクストラポイントをあげ、その後サイドラインに留められた。セントメリーズ大学戦でも3タッチダウンをあげた。続く強豪のピッツバーグ大学戦では多くのものがピッツバーグ大学がカーライルを粉砕すると予想したが彼の活躍により17-0でカーライルが勝利した[6]。全米で注目されたハーバード大学(ランキング1位)との対戦でソープはランニングバックディフェンシブバックプレースキッカーパンターとして出場、4フィールドゴール(最後に50ヤードの決勝FGを決めている[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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