ジム・ケリー
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この項目では、アメリカ合衆国のアメリカンフットボール選手について説明しています。その他の人物については「ジェイムズ・ケリー」をご覧ください。

ジム・ケリーJim Kelly

基本情報
ポジションクォーターバック
生年月日 (1960-02-14) 1960年2月14日(64歳)
出身地 アメリカ合衆国
ペンシルベニア州ピッツバーグ
身長:6' 3" =約190.5cm
体重:226 lb =約102.5kg
経歴
大学マイアミ大学
NFLドラフト1983年 / 1巡目全体14位
初出場年1986年
初出場チームバッファロー・ビルズ
所属歴

1984-1985ヒューストン・ギャンブラーズ(USFL)
1986-1997バッファロー・ビルズ

受賞歴・記録



AFCチャンピオン4回:(1990年、1991年、1992年、1993年)

プロボウル選出4回:(1987年、1990年、1991年、1992年)

オールプロ選出1回:(1991年)

USFLオールリーグチーム(1984年、1985年)

1984年USFL MVP

1984年USFL 新人王

USFLオールタイムチーム

ビルズ通算リーディングパサー

バッファロー・ビルズ永久欠番 #12

NFL 通算成績

通算パス獲得ヤード35,467ヤード
TD/INT237回/175回
QBレイティング84.4
ラン獲得ヤード1,047ヤード
ランタッチダウン7回
Player stats at ⇒NFL.com


Player stats at PFR
NFL殿堂入り

ジェームス・エドワード・ケリー(James Edward Kelly、1960年2月14日 - )は、ペンシルベニア州ピッツバーグ出身のアメリカンフットボール選手。ポジションはクォーターバック(QB)。マイアミ大学時代からQBとして活躍し、1983年のNFLドラフトでバッファロー・ビルズに1巡14位指名でされたが入団を拒否し、当時NFLの対抗リーグとして存在したUSFLヒューストン・ギャンブラーズ(英語版)に入団した[1]。その後2年でUSFLが崩壊したためビルズと契約。リーグ屈指の攻撃陣を率いてビルズを90年シーズンから4年連続スーパーボウル(第25回から第28回)へと導いた。1996年引退。プロボウル選出5回。2002年プロフットボール殿堂入り。ビルズ史上最も偉大なQBであり、パスに関する球団記録はほとんどが彼のものである。背番号12は球団初の永久欠番に指定された。
NFL以前

イーストブレイディ高校時代に3,915ヤード44TDを挙げ州選抜に選ばれる。バスケットボールでも活躍し、州選手権準決勝まで進んだ。

マイアミ大学時代の1980年にはチームをピーチボウル出場に導いた。マイアミ大学がボウルゲームに出場するのは14年ぶりのことであった[2]。大学通算成績は646回試投406回成功(成功率62.8%)で5,223ヤード、32タッチダウン(TD)。マイアミ大が優秀なQBを輩出することを意味する「Quarterback U」(ケリー、バーニー・コーザー、ビニー・テスタバーディ、スティーブ・ウォルシュ、クレイグ・エリクソン、ジノ・トレッタ)と呼ばれるきっかけとなった[2]。1992年マイアミ大殿堂入り。

1983年のNFLドラフト1巡全体14位(トム・カズノーをクリーブランド・ブラウンズにトレードすることで得た指名権)でバッファロー・ビルズに指名されたが[3]、同年USFLヒューストン・ギャンブラーズに入団。タイトエンド(TE)を付けず、ランニングバック(RB)を1人しか置かないラン&シュートと呼ばれるパス偏重フォーメーションを操って、1984年には5,219ヤードを獲得、44TD、1985年までの2年間でパス9,842ヤード、83TDという好成績を残した。入団1年目の84年シーズンに最優秀選手賞受賞[2]。2年連続オールUSFLに選ばれた。
NFLビルズ時代

1985年シーズン限りでUSFLが崩壊したため、交渉権を有していたNFLバッファロー・ビルズに入団。1年目の1986年シーズンから全試合に先発出場して3,593ヤード22TDの活躍で一躍スターQBの仲間入りを果たした。

1988年、チームはAFCチャンピオンシップゲームまで進出したが、ディック・ルボーディフェンスコーディネーターが、後半よりラインバッカー1人とランに強いセイフティ1人をコーナーバック1人、パスに強いセイフティと交代させる戦術の前にパス30回中14回成功163ヤードに抑えられ、3インターセプト、3サックを浴びて10-21で敗れた。この試合の後半ケリー率いるビルズオフェンスはボールを9分4秒しか保持できなかった[4]

1985年入団のワイドレシーバー(WR)アンドレ・リード、1988年入団のRBサーマン・トーマスらを擁する「ハイパーオフェンス」と呼ばれる強力な攻撃陣を率いて1990年シーズンにはAFC王者となり、第25回スーパーボウル出場を果たしたが、ニューヨーク・ジャイアンツに19-20と1点差で敗れた[5]

翌年、パス成功率64.1%で3,844ヤードを投げて、33TD、17INT、QBレイティグ97.6をマーク、チームはトータルオフェンスでNFLトップの6,525ヤードを獲得、NFL2位の458得点をあげた。ワシントン・レッドスキンズとの第26回スーパーボウルではパス58回中28回成功、4インターセプトに終わり、24-37で敗れた[6]

1992年の最終週、ヒューストン・オイラーズ戦でひざを負傷、オイラーズとのワイルドカードプレーオフ、ピッツバーグ・スティーラーズとのディビジョナルプレーオフは欠場、マイアミ・ドルフィンズとのAFCチャンピオンシップゲームで復帰した。ダラス・カウボーイズとの第27回スーパーボウルでは、パス38回中22回成功、276ヤード、1TD、4インターセプト、第2Qにケン・ノートン・ジュニアのヒットで古傷のひざを負傷、途中退場している。

1993年、パス470回中288回成功、3,382ヤード、18TD、18INTの成績を残した。この年、第28回スーパーボウルを果たし、ロジャー・ストーバックテリー・ブラッドショージョー・モンタナに次いで史上4人目となるスーパーボウルで4度目の先発QBとなった(後にジョン・エルウェイトム・ブレイディも記録を達成。)。スーパーボウルではパス50回中スーパーボウル記録となる31回を成功、260ヤードを投げたが[7]、1INT、TDなしに終わり、13-30で敗れた。

4年連続スーパーボウルに出場したが全て敗戦。スーパーボウル4連敗(通算0勝)という不名誉なNFL記録を作ってしまった。しかしながら4年連続のスーパーボウル出場は4年連続AFC制覇ということであり、NFLがフリーエージェント制度やサラリーキャップ制度も未導入でチーム力が維持しやすい時代だったということを差し引いても、前人未到の偉業だったことは間違いない。

ビルズ黄金時代はそのままケリーの黄金時代と言い換えてもよく、1991年には自己ベストの3,844ヤード33TD、成功率64.1%という成績を残している。この年10月21日のシンシナティ・ベンガルズとのマンデーナイトフットボールでは5TDパスを決めて、デイブ・クレイグのMNF記録に並んだ[8]

サラリーキャップ制度が施行された1994年シーズンにはAFC4連覇メンバーの流出が始まり、チームは5年連続のスーパーボウル出場どころかプレーオフ進出すら逃してしまうが、ケリー自身は3,114ヤード22TDと奮闘した。


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