ジム・クロケット・プロモーションズ(Jim Crockett Promotions、略称:JCP)は、アメリカ合衆国のプロレス団体。
ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング(Mid-Atlantic Championship Wrestling、略称:MACW)のブランドネームで知られ、昭和期の日本ではNWAミッドアトランティック地区とも呼称された。
1980年代後半までジム・クロケット・ジュニアが運営し、NWAの主要な加盟団体として長く存続、NWA末期における最大の団体であり、後のWCWの前身にあたる。 1931年、ジム・クロケット・シニア
歴史
草創期
クロケット・シニアは1952年にNWAに加盟し、そのテリトリーはバージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナをカバーした。1973年に死去するまで38年間、この地域でショーをプロモートし、その地盤は彼の長男ジム・クロケット・ジュニアに引き継がれた。 1973年、ジム・クロケット・プロモーションズ社の運営がジム・クロケット・ジュニアに譲渡されると、『ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング』(MACW)という名称を、印刷物やラジオ、その他の広告で使用される会社の第一のブランドネームとして使用するようになった。その2年後には『ワイド・ワールド・レスリング』(のちに『ワールド・ワイド・レスリング』に改名)という名称をテレビ番組に導入した。 プロレスのテレビ番組の安定した人気で、JCPは次第にテリトリーを拡張し、テネシー州東部やウエストバージニア州の一部、ジョージア州サバンナでも興行を打つようになった。1970年代後半から1980年代初頭、団体はオハイオ州シンシナティに本拠地を移動する。カナダのトロントで、メープル・リーフ・レスリング
1970年代
番組は1975年に『ワイド・ワールド・レスリング』として、一時間の販売用番組として始まった。ローリーのテレビ局WRAL-TVで、毎週水曜の夜にMACWの放送の後に放送された。
1978年、ABCの番組『ワイド・ワールド・オブ・スポーツ』との混同を避けるために、番組名を『ワールド・ワイド・レスリング』に改称。1981年夏には、WRALがJCPとの契約更新を打ち切ったため、クロケットはシャーロットのテレビ局WPCQ(現WCNC)と新たに契約する。WPCQは以前にもプロレスの番組を作っていたためうってつけのように思えたが、スタジオは狭く、使い勝手は悪かった。
1988年にテッド・ターナーに売却されてからは、番組名は『WCWワールドワイド』に改名し、番組自体は2001年まで続いた。 1980年、ジム・クロケット・ジュニアはNWAの会長になる。しかし1980年代初頭、プロレス業界は著しく変化しつつあった。ビンス・マクマホンのワールド・レスリング・フェデレーション(WWF、現在のWWE)は全国展開への動きを見せ始め、ジョージア・チャンピオンシップ・レスリングを買収した。当時ビンスは全国放送のTBSの時間枠を得てWWFの放映をし、この番組は結局視聴率が上がらず失敗したにせよ、マクマホンはMTVでもいくつかの番組を放映していた。さらに、マクマホンは当時プロレス界で最も人気のあるレスラー、ハルク・ホーガンと契約していた。かつてのNWAのテリトリー制は、WWFの人気によって崩壊しつつあった。 1982年、ボブ・ガイゲルがサム・マソニックのセントルイス・レスリング・クラブを買収してNWA内での発言力を増しNWA会長に就任。ジム・クロケットのNWA会長職は2期で終わった。 1983年、当時WWFがシェイ・スタジアムで行っていた大興行『ショーダウン・アット・シェイ(Showdown at Shea)』(1980年までに3度行なわれた)に対抗するべく、クロケットはNWAとしての新しい一大イベント『スターケード』を仕掛けて成功を収めた。 1984年には、全国的な組織を作ろうというクロケットの最初の試みもみられた。JCPは、バーン・ガニアのアメリカン・レスリング・アソシエーション(AWA)やオレイ・アンダーソンのチャンピオンシップ・レスリング・フロム・ジョージア(ジム・バーネットが主宰していたジョージア・チャンピオンシップ・レスリングから分かれた団体)、メンフィスを拠点としたジェリー・ジャレットのコンチネンタル・レスリング・アソシエーション(CWA)と共同で『プロレスリングUSA』を設立。この団体は、当初はWWF以外の錚々たるプロモーターたちが揃った合弁事業組織であった。 プロレスリングUSAの全盛期は、シカゴのコミスキー・パークで行われた『スーパークラッシュ』であった。1985年9月28日、2万1000人以上の人々が会場を埋めた。興行のメインカードは、リック・フレアー対マグナムTAのNWA世界ヘビー級王座戦と、リック・マーテル対スタン・ハンセンのAWA世界ヘビー級王座戦であった。このように同じ試合でAWAとNWA世界王座戦を組めることが、プロレスリングUSAのメリットでもあった。 プロレスリングUSAの興行は各メンバーのテリトリーで行われ、さらには、WWFに対抗するべく、元WWFのテリトリーの中心地であったニュージャージー州など北東部でも興行が行なわれた。しかし、プロモーター間、主にガニアとクロケットの不和の結果、この団体は数ヶ月程度しか存在できなかった。クロケットはこの共同事業から撤退し、その後数ヶ月のうちに、プロレスリングUSAは単にAWAの焼き直しのような団体になってしまった。1986年1月にこの団体は解散した。 クロケットはオレイ・アンダーソンのチャンピオンシップ・レスリング・フロム・ジョージアを1985年4月6日に買収し、NWA会長に再選された。次に、一連の『サタデー・ナイツ・メイン・イベント』の興行のために資金が必要であったビンス・マクマホンから、TBSの土曜日夕方の『ワールド・チャンピオンシップ・レスリング』の時間枠を買い取った。 JCPはテッド・ターナーのアトランタのスタジオで収録された2時間のオリジナルの番組を毎週制作した。番組は『ワールド・チャンピオンシップ・レスリング』の名前で放送され、それは消滅する前のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングが採用していた名前であった。同年クロケットは、JCPのブッカーであるダスティ・ローデスと共に、年に一度のビッグマッチ興行である『グレート・アメリカン・バッシュ』を打つことに成功した。 1985年9月にはNWAのセントルイス・レスリング・クラブを買収し[1]、『オールスター・レスリング』という名の番組/興行をセントルイスで始めた。 1987年までに、クロケットは3期NWA会長に選出され、セントルイス・レスリング・クラブ、ハート・オブ・アメリカ・スポーツ・アトラクションズ(ボブ・ガイゲルのセントラル・ステーツ・レスリング)、エディ・グラハムが主宰していたチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ、ビル・ワットのミッドサウス・スポーツ(ミッドサウス・レスリング・アソシエーションとして運営され、後に拡大し、ユニヴァーサル・レスリング・フェデレーションとなる)の各テリトリーを管理するようになった。
1980年代前半
1980年代後半