ジム・カート
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ジム・カット

ジム・カート
Jim Kaatミネソタ・ツインズ時代
(1965年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ミシガン州ジーランド
生年月日 (1938-11-07) 1938年11月7日(85歳)
身長
体重6' 4" =約193 cm
217 lb =約98.4 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1957年
初出場1959年8月2日
最終出場1983年7月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


ワシントン・セネターズ
ミネソタ・ツインズ
(1959 - 1973)

シカゴ・ホワイトソックス (1973 - 1975)

フィラデルフィア・フィリーズ (1976 - 1979)

ニューヨーク・ヤンキース (1979 - 1980)

セントルイス・カージナルス (1980 - 1983)

コーチ歴


シンシナティ・レッズ (1984 - 1985)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年2022年
得票率75.0%
選出方法ベテランズ委員会選出
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ジェイムズ・リー・カート(James Lee Kaat, 1938年11月7日 - )は、アメリカ合衆国ミシガン州ジーランド出身の元プロ野球選手投手)。ニックネームは「Kitty」。

日本語メディアにおいてはジム・カットと表記されることもある。
経歴

1957年6月17日にワシントン・セネターズと契約。1959年8月2日のシカゴ・ホワイトソックス戦でメジャーデビューし、同年は2敗・防御率12.60。1960年4月27日のニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初勝利を挙げるが、その後5連敗で6月にマイナー降格。チームがミネアポリスに本拠地を移転し、ミネソタ・ツインズと改称した1961年先発ローテーションに定着し、9勝17敗、防御率3.90、共にリーグ最多の11死球、10暴投を記録。1962年は5月12日から7連勝を記録し、オールスターゲームに初めて選出される。後半戦で10勝6敗、防御率2.43と調子を上げ、18勝14敗、防御率3.14、いずれもリーグ最多の5完封、18死球、13暴投を記録。初のゴールドグラブ賞を受賞し、以後15年連続で受賞する。1963年は故障もあって10勝に留まるが、1964年は17勝を挙げる。1965年はシーズンを通じて防御率2点台を維持するなど好調で、被安打267はリーグワーストながら18勝11敗、防御率2.83を記録し、チームの32年ぶり、移転後初となるリーグ優勝に貢献。ロサンゼルス・ドジャースとのワールドシリーズでは3試合に先発し、いずれもサンディー・コーファックスと投げ合う。第2戦では1失点完投勝利を収めるが、第5戦では3回途中4失点、中2日の第7戦では4回途中2失点で降板して敗戦投手となり、チームは3勝4敗で敗退した。

1966年は4年ぶりにオールスターゲームに選出され、8月11日から8連勝を記録するなど25勝13敗、防御率2.75、205奪三振、いずれもリーグ最多の41先発、304.1イニング、19完投、271被安打を記録し、最多勝のタイトルを獲得。MVPの投票では5位に入るが、当時サイ・ヤング賞は現在とは違って両リーグで1人だけの選出だったため、27勝9敗、防御率1.73、317奪三振を記録したコーファックスが受賞したが、もしリーグで1人であれば選出されていた可能性は高い。皮肉にも翌1967年からリーグで1人の選出となった。同年は1勝7敗と出足でつまずくが、9月に7勝、防御率1.51を記録。チームはボストン・レッドソックスデトロイト・タイガースと熾烈な優勝争いを演じ、勝てば優勝が決まる9月30日のレッドソックス戦で先発したが3回途中で降板してチームは敗れ、翌日も敗れて1ゲーム差でリーグ優勝を逃した。1968年は故障で1ヶ月出遅れたが14勝、防御率2.94を記録。エクスパンションによって4球団が誕生し、東西2地区制となった1969年も14勝を挙げ、チームの地区優勝に貢献。ボルチモア・オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは登板がなく、チームは3連敗で敗退した。1970年も14勝で、チームは地区連覇を果たす。前年に続きオリオールズとの対戦となったリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発したが3回途中4失点で敗戦投手となり、チームも3連敗で敗退。1971年は13勝。1972年は開幕から好調で10勝2敗、防御率2.06を記録するが、7月2日を最後に故障で離脱しシーズンを終えた。1973年8月15日にウェーバーにかけられ、ホワイトソックスが獲得。

1974年は6月7日から7連勝、9月・10月には7勝、防御率0.30を記録し、21勝13敗、防御率2.92の好成績。1975年は前半戦で13勝を挙げ、9年ぶりにオールスターゲームに選出され、20勝14敗、防御率3.11を記録。12月10日に3選手との交換トレードで、1選手と共にフィラデルフィア・フィリーズに移籍。

1976年は前半戦は9勝3敗、防御率2.91と好調だったが、後半戦で3勝11敗、防御率4.20と調子を落とす。チームは地区優勝を果たし、シンシナティ・レッズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発し、ビッグレッドマシンと呼ばれた強力打線を6回まで1安打に抑える好投を見せたが7回に捕まり、チームは逆転サヨナラで敗れて3連敗で敗退した。1977年は開幕からリリーフで起用され、5月に先発に戻るが6勝11敗・防御率5.39に終わる。ブルックス・ロビンソンに並ぶ16年連続16回目のゴールドグラブ賞を受賞した。1978年はシーズン初登板で完封勝利を挙げるが8勝。1979年5月11日にニューヨーク・ヤンキースに移籍し、以後はリリーフとしての起用が中心となる。オフにフリーエージェントとなるが1980年4月1日に再契約。4月30日にセントルイス・カージナルスに移籍し、8勝4セーブを記録。1982年は62試合に登板し、チームはリーグ優勝。ミルウォーキー・ブルワーズとのワールドシリーズでは4試合に登板し。チームは4勝3敗でワールドチャンピオンとなり、自身唯一のチャンピオンリングを手にした。1983年7月6日に解雇され、現役を引退した。


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