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ジミー時田
原語名Jimmie Tokita
出生名時田悦朗 (後に圭介)
生誕 (1936-03-15) 1936年3月15日
出身地満州 (現:中国遼寧省遼陽市)
死没 (2000-03-10) 2000年3月10日(63歳没)
学歴青山学院大学
ジャンルカントリー
活動期間1957-2000
レーベルキングレコード
日本ビクター
東宝芸音
テイチク
共同作業者マウンテン・プレイボーイズ
ジャイアント吉田
いかりや長介
寺内タケシ
尾崎紀世彦
著名使用楽器
ギター
ジミー時田(ジミーときた、1936年3月15日[1] - 2000年3月10日[1])は満州生まれのカントリー・ミュージックの歌手[1]。本名は時田 圭介[1]。ジミー・ロジャーズにあやかって「ジミー」を名乗った。 1936年、満州にて出生。幼少の頃から歌うのが好きで、高校1年の頃からカントリー・ミュージックに目覚め、FENから流れてくるカントリー番組を聴いて、コピーしながらレパートリーを増やしつつ、英語力も磨いたという。 1951年、東京都荒川区立第一中学校卒業。青山学院高等部入学。 高校1年の頃、ウェスタン・ランブラーズに加入。 1954年、青山学院大学文学部英文学科入学。1955年から1年間ほど、山口銀次等のハワイアン・バンドにてギターの修行をした。 1957年9月、マウンテン・プレイボーイズを結成、その後青山学院大学英米文学科を卒業[2]。 1958年、大学卒業。パンアメリカン航空に就職するものの、バンド活動との両立ができず、ほどなく退職。この頃、本名を改名。 1960年、レコード・デビュー。1966年までに共同名義も含めてアルバム18枚をリリースするなど、精力的な活動を行った。 1967年9月、単身で渡米し、アーティスト・ユニオンに加入して現地のクラブ・ハウスを回った。 1969年8月、時田は愛飲家として知られるが、アルコールで体調を崩して帰国。[3] 1970年、数ヶ月の静養を経て、日本での音楽活動を再開。晩年に至るまで、本人の体調不良もあり活動は断続的となったが、複数のレーベルから自己名義の作品を発表、併せて他のカントリー系アーティスの作品で客演した。 2000年3月10日、東京都杉並区で逝去、63歳没。墓所は川崎市春秋苑。 時田はバンド結成の際、カントリー&ウェスタンのみならずブルーグラスもできるような編成とした。[4] ギター、スティール・ギター、ベース、フィドルを基本としているが、ギタリストが時折マンドリンやバンジョーを兼任している。また、時田は伝統的なドラムレスの編成を好んでおり、一時期を除いてレギュラー・ドラマーを配置していない。 なお、マウンテン・プレイボーイズ単体としてLP1枚をキング・レコードに残している他、トミ藤山の「アメリカ旅日記第2集」、「ウェスターン・ヒット・10」のバックを務めている(ただし、契約の関係から、「コロムビア・ワゴン・ボーイズ」名義)。 1957年9月、結成(初期のラインナップは不明)。当初は各地の米軍キャンプでの活動が中心だった。1959年からジャズ喫茶での演奏を開始。 1960年、レコード・デビュー。1967年まで、メンバー・チェンジを繰り返しながら、レコーディング活動を精力的に行う。 1967年、時田の渡米により活動休止。 1970年、時田の帰国とともに活動を再開。 2000年、時田の死去に伴い、解散。
経歴
マウンテン・プレイボーイズ
メンバー
鍋島常敬(エレクトリック・ギター): 1957年。初代ギタリスト。脱退後にクレージー・ウエストに加入。
名倉あきら(エレクトリック・ギター、バンジョー): 1958-60、61-67年。
吉田一男(ヴォーカル、ギター、マンドリン、コント): 1958-62年。後のドンキーカルテットでも活躍したジャイアント吉田である。